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ウィリー・ネルソン 「Me and Paul」

先日、ナッシュビルを訪れた際の古い話を書いたが、結果、自分自身がそれに感化されて、このところカントリーのアルバムを久しぶりによく聞いている。そんな中、今までさほど聞いていなかったウィリー・ネルソンのRCA時代(1965〜72年)のコンピレーションCDも引っ張り出してきたのだが(彼のRCA時代のアナログ盤は日本ではまず見かけない)、そのCDの1曲目「Me and Paul」の歌詞が今まで以上に耳に留まった。

RCA時代のコンピレーションCD『The Essential Willie Nelson』(1995年)

「Me and Paul」はウィリーのファンにとってはそこそこ有名な曲で、85年にはこの曲をタイトルに冠したアルバムも発表されている(彼は同じ曲を再演することが結構多い)。私自身も今までに新しいバージョンやライブ音源などで何度も聞いていたが、71年録音のこの古いバージョンは歌詞がとても耳に入ってきやすかった。

アルバム『Me and Paul』(1985年)

曲の歌詞は、特に感動的なものでも何でもない。「俺とポール」のふたりがオン・ザ・ロード(演奏ツアー)で受けた扱いについての不平不満が淡々と語られるだけだ。カントリーヒットの定番だった失恋ソングやラブソングでもなければ、60年代フォークのようなプロテストソングやメッセージソングでもない。70年代シンガーソングライターたちのような内省的な歌でもないし、やはりカントリーソングによくあるアンセム的な曲でもない。恐らくは、自身の体験をそのまま書いた殆ど虚飾のない歌詞だろう。

Me and Paul

なかなかきつい旅だったぜ
でも ようやくまっすぐ大地に立っている
何度か確認してみたけど
自分の精神状態が今もまともなのが不思議なくらいだ

まあ ナッシュビルは一番粗っぽいところだったな
同じことを何度も言ってるんだけど
俺たちが教育を受けたのは
この国のいろんな街でだ
そう 俺とポールの話さ

ラレードでは あやうく逮捕されかけた
理由はあまり言いたくないけどね
モーテルに泊まったなら
そこを立ち去るときは
服の中には何も残さないことだ

ミルウォーキーの空港じゃ
搭乗を完全に拒否された
不審者に見えたらしい
目をつけられてたんだ
俺とポールは

バッファローではパッケージショーだった
俺たちと キティ・ウェルズとチャーリー・プライド
長ったらしいショーで 俺たちはただそこに座ってただけ
馬に乗るためだけに来たんじゃないぜ
演奏するために来たんだ

しこたまウィスキーを飲んださ
だから その夜 最後まで演れたかなんて全く覚えてない
でも そいつらが俺たちを見れなかったってことはないだろ
まあ バッファローはあんまり向いてないね
俺とポールには

"Me and Paul" Written by Willie Nelson; translation by Lonesome Cowboy

ここで歌われている「ポール」とは、ウィリーがまだ駆け出しだった50年代から一緒に演奏していたドラマー、ポール・イングリッシュのことだ。イングリッシュは2020年に87歳で亡くなる直前まで、ウィリーのバンド「ファミリー」でドラムやパーカッションを叩き続きてきた。強面の彼は、若い頃は金払いの悪いクラブオーナーたちからの集金役でもあったらしい。

60年代初めにパッツィ・クラインが歌った「Crazy」やファロン・ヤングが取り上げた「Hello Walls」などの作曲者として脚光を浴び、地元テキサスからナッシュビルに移ってRCAからデビューしたウィリー・ネルソンだったが、60年代当時はさしたるヒットにも恵まれず、プロデューサーだったチェット・アトキンスが主導するナッシュビルの型通りの音楽の作り方にフラストレーションを感じていたという(この当時のナッシュビルでは、LAの「レッキングクルー」に相当する「ナッシュビルキャッツ」と呼ばれる一流スタジオミュージシャンたちがバッキングトラックを作る方法が一般的だった)。

「Me and Paul」では、「ナッシュビルは一番粗っぽいところだったな」(I guess Nashville was the roughest)と繰り返し歌われる。これが何のことを指しているのか曲の中で具体的に触れられてはいないが、「音楽工場」のようなナッシュビルの在り方にウィリーが不満を抱いていたことはその後の彼の行動を見れば明らかだ。1972年、彼はナッシュビルを飛び出し、地元テキサス州のオースティンに拠点を移す。そして、RCAを去り、カントリーミュージックとは縁の薄いアトランティック・レコードと契約。なんとアリフ・マーディンをメインプロデューサーに迎え(一部、ジェリー・ウェクスラーも手伝っている)ニューヨークで録音したアルバム『Shotgun Willie』(1973年)を発表。このアルバムから、ポール・イングリッシュを含むツアーバンド「ファミリー」のメンバーがレコーディングにも関わるようになる。

左から『Shotgun Willie』(1973年)、『Phases and Stages』(1974年)、『Red Headed Stranger』(1975年)

アトランティックとの契約は、ウェクスラーをメインプロデューサーに迎えてマッスルショールズで録音した次作『Phases and Stages』(1974年)で終了するが、その後移籍したコロムビアから発表された『Red Headed Stranger』(赤毛のよそ者)(1975年)がカントリチャート1位、ポップチャート28位のヒットを記録。以降、アメリカを代表するカントリーシンガーとして不動の地位を築くことになる。もっとも、元来アウトロー気質のある彼の人生は、マリファナの不法所持で何度か逮捕されたり、会計監査法人の不手際でIRS(米国国税庁)に財産を差し押さえられたりと、かなり起伏に富んでいる。

1933年生まれのウィリーは今年(2024年)4月で91歳になるが、驚くべきことにこの4〜5月にもツアーの予定が組まれている。昨年4月の90歳の誕生日には、LAのハリウッドボウルでセレブレーションコンサートが開かれ、旧友クリス・クリストファスンのほか、キース・リチャーズブッカー T.ジョーンズシェリル・クロウノラ・ジョーンズベックウォーレン・ヘインズロザンヌ・キャッシュジョージ・ストレートら、カントリー/ロックの枠を超えて多彩なゲストが参加していた。

このライブ映像の全編は、アメリカでは昨年(2023年)12月17日にCBS/パラマウント+で放映されたようだが、パラマウント+では12月21日からウィリーのドキュメンタリー映画のストリーミング公開も始まった。(残念ながら、日本ではまだ見れないようだ)

ウィリー・ネルソンの曲を取り上げるなら、本来は「Crazy」や「Night Life」「Whisky River」「On The Road Again」などの代表曲の方が、彼のことを知ってもらうのには良いだろうし、曲そのものの好きさ加減で言ってもそういった曲の方が私自身も好みではある。だが、そういった、いわゆる「よく出来た」曲よりも、ある意味まったくコマーシャリズムを感じさせない、走り書きのようなこの「Me and Paul」に改めてウィリーらしさを強く感じた。この曲は、ウィリーとポールの関係を知っていればふたりの絆の深さを示す歌だが、ヒットを狙って書かれた友情讃歌のようなものとは違う。

ポール・イングリッシュは2020年に他界しているが、ウィリーが彼との知られざる思い出を綴った本『Me and Paul: Untold Stories of a Fabled Friendship』が昨年9月に発表されている。ウィリーの伝記本はこれまでにも数多く出版されているが、この本を読めば「Me and Paul」の歌詞では具体的に触れられていなかった、彼に「Nashville was the roughest」と言わしめた理由も具体的に描かれているかもしれない。

『Me and Paul: Untold Stories of a Fabled Friendship』(2023年)

曲の中では、ポールについて何の描写もなされていない。しかし、各ヴァースの最後にただ「… me and Paul」と繰り返すだけでふたりの絆の強さが際立つこの曲は、実はかなりよく出来た曲なのかもしれない。

1984年に観たウィリーの初来日コンサート時のパンフレットとチケット
コンサートパンフ掲載のCBSソニーとソニーの広告。CBSソニーは、当時できるだけカントリーっぽさを出さないようにしながらウィリーを売り出そうとしていた。


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