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「詩」が嫌いです②(でも本当は好きです)

前回、「詩が嫌い」と銘打っておきながら、自分の好きな詩について語ってしまいました。

この勢い(?)で今回も私が心動かされた文章芸術について語ります。

詩というか歌詞ですが、いい詩ってこういうものなんじゃないかと強く思うので書いちゃいます。

取り上げる歌詞はミッシェルガンエレファントの『世界の終わり』。

この歌詞のポイントは、世界観のカッコ良さだと思います(こう言うと随分チープに感じますが)。

村上春樹さんの文章を薦めてくる友人はよく「物語の展開のエンターテイメント性よりも、作品の世界観を味わうべき」と語ってくるのですが、

この歌詞をそんな風に私は味わっております。

この歌詞の世界に出てくる人物は主に二人。

「君」と「僕」

(1)君と僕が織り成す不思議な終末

「僕」はどうやらこの「世界」からすこぶる疎まれている存在なのですが、

周りからの憎悪の言葉も、どこか他人事のように聞き流しています。

まるで電車の窓の外で流れ去る景色のように、目には写るが気に止めていない様子。

「君」は年齢も性別も全くわからないのですが、どこか達観した予言者のような雰囲気をまとった人物で、

世界の終わりがもう来ると「僕」に告げるが、紅茶を飲んだりパンを焼いていたり、全く非常事態感がありません。

いや、それどころか世界の終わりを待ち焦がれてさえいます。

自分をこれまで取り巻いてきた全てが跡形もなく壊れることを望んでいるような雰囲気があるのですが、

と言うことは「君」にとってもこの「世界」は居心地のいいものではなかったのか…

よく「わからない」ところに聴き手の想像力の余地があります。楽しい。

「僕」はと言うと、人々の憎悪には無関心だが、「君」の発言には少年のように素直に耳を傾けます。

「小学校を出たら中学校にいくのよ」と言われた子供のように、是でも非でもなく、「君」の予言を「そういうものなのか」と受けいれている様子。

この「僕」の感情が読めないところもやはりこの歌詞の魅力であり、自由な解釈の余地が用意されています。

(2)「僕」とは誰か

ほぼ色がついていないこの「僕」と言う存在が、鑑賞者がこの不思議な世界観の中に自己を投影する窓口となります。

なぜか「僕」は少年のような気がします。

世界の終わりを受け入れようとする無邪気さがそう感じさせるのでしょうか。

この世界に馴染めなかった「僕」は、自分と異なるルールで回るこの世界の終焉を告げられて、

高揚したのか、

絶望したのか、

驚いたのか、

やっぱりなと思ったのか、

明言はされてないが、この歌詞世界のなかにそこを解き明かすヒントが形無く漂っているようで、何度も何度も聴いてしまうし、読んでしまいます。

(3)最小の言葉で描かれる「世界」

例えば歌詞の冒頭の

「悪いのは全部君だと思ってた 狂っているのはあんたなんだって」

と言う部分。

この一行で、「僕」が「世界」から疎まれてきたこと、そしてその憎悪も「世界の終わり」を前にして解消していっているらしいこと、人々の後悔などが伝わってきます。

続く歌詞から「僕」はこれまで自分に向けられてきた嫌悪感も、その後の手のひら返しも、どうでもいいと思っており、

ただ目を見開いて「君」の予言に耳を傾けている様子が必要最小限の言葉で描き出されていきます。

全てはたった二人の人物のやり取りというミニマムな描写だけど、

世間の人々の混乱や後悔などの意識領域から、

不気味に赤い光を放つ月を抱く空の高さまで、

次元を越えた広がりを見せてくれるのがこの歌詞の魅力です。

そう言った不思議な磁場を持った作品です。

みなさんはどう解釈されるでしょうか?

このように、説明臭くないけれど、きちんと丁寧に読み手に「自由な解釈の余地」を残してくれている言語芸術作品は本当に優れていると思います。

長くなりすぎた…ごめんなさい。
とりあえず今日はここでおしまい。


こんなイメージが浮かびました。

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