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世界をより良く認識するために

日々の忙しさに流されて生きていると、ふと自分が何を理解して何を理解できていないのか不安になる瞬間がある。そうならないために、きちんと理解できたことを言語化しておこう。いや、言語化できることが理解したことになるのか。世界を言語で理解することが、正しく世界を認識しているかどうかは怪しいが、やはり人間のコミュニケーションにおいて、言語の占める割合はいまだに大きい。ビジュアルを共有するコミュニケーションもだいぶ発達したが、そのビジュアルを生成するのにも、言語を使うことが多いわけだから、やはりこの世界は言語をもとに作られていると言っても言い過ぎではないだろう。では逆に言語がなくなったとしたら、その時世界は失われるのか。言語を手に入れてしまったあとで、言語のない世界を想像することはなかなか難しい。でもたとえば、異国の地に赴いて知らない言葉を喋る人たちの輪に入ったときは、世界は失われるだろうか。コミュニケーションが行えなくても、世界はそこに存在していることに変わりはない。じゃあ世界は言語でできているというのは誤りだ。やはり世界が先にありそこに言語が生まれた。言語は人と人が繋がる手段としてある。世界を認識する手段ではない。いや、山と丘、犬と狼を分けるのは人と人を繋げる手段ではない。言葉には世界を認識する機能と世界を共有する機能があるのか。世界を認識する方法は五感で済む。しかし五感は共有することができない。五感があるのは、世界を認識することでその個体の生存確率を上げるためだ。さらに人間は、その固有の世界を他者と共有することで、互いの認識の違いと共通項を確かめ合った。これは、群れでの生存確率を高めることに繋がっただろうか。確かに言語があれば、協力しやすい。こちらで見張をしている間に仲間に餌をとってきてもらうとか、言葉を使う方が間違いがない。ジェスチャーだけでは、なかなか伝わらない。言葉が、人類の進歩を加速したことは間違いないだろう。言葉により世界を分割することで世界を理解し、その名付けられたものだけが認識の中で存在する。存在しないものについて、人は共有することはできない。そこに存在させるために、言葉は使われてきた。言葉があるということは、世界を存在させることだ。言葉が先か。世界が先か。言葉がなく、世界を理解することは可能なのか。世界を共有することは可能なのか。物理的に脳が分かれている個体が、完璧にお互いの世界を共有する方法はない。言葉も完璧ではない。言葉からこぼれ落ちるもの、言葉にした瞬間にとりこぼしてしまうもの、それらが互いの世界の違いを突きつけてくる。言葉をとりこぼせばとりこぼすほど、断絶は深まる。認識の違いが鮮明になる。小説より音楽が人々の間で共有されやすいのは、言葉より音楽が、言葉になる前の世界をとりこぼさずに伝えられているからかもしれない。言葉は進化するのか。言文一致になってから日本語は進化したのか。もうこれ以上言葉は増えないのか。増えないとしたら、それは世界を認識する人間の知覚の限界だ。世界はずっとそこにあり、言語もだいぶ昔から変わっていない。もう世界は50音で示せるし、それ以上は必要ない。俳句や落語のように、要素を限定することで、表現に深みが増すということもある。なるべくたくさん、言葉から世界が生まれる瞬間に立ち会いたいものだ。


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