「遊び」という言葉の聞こえの悪さ

先日同じ年代の子どもを持つ
親友と話していた時に考えたことをここにまとめておこうと思います。

昔出会った同僚の教員で、
私がこの人の教育観はもう反面教師にしよう、
と思う人物がいました。

その人はその年、
理科専科の担当でした。

私も理科専科を担当した年がありますが、
理科専科って準備片付け安全確保が
面倒くさいし大変ですが、
理科というのは、
子どもとともに実体験を喜び合える
とても素晴らしい教科でもあります。

ところが反面教師のその人は、
面倒だからと一切の実験をしませんでした。

全単元プリント。
理科室へ行っても、プリント。

沢山の実験器具を目の前に
子どもたちは1枚の紙を永遠に埋めていくのです。

荒れてる子たちなら理科には危険が伴うので、
実験ができないこともありますが、
その時の学校はとても大人しい子たちです。

周りの教職員がその人に何度も忠告しても、
一向に改善しようとはしませんでした。

このような状況を客観的に見て、
素晴らしい、良い、と思われる方が
どれくらいいるでしょうか?

話は変わって、
幼児教育界の、園選びについて。

子どもを持つ人がほぼみんな通る道が、
園選び。

いろんな記事でよく見かけるのが、
お勉強園か、遊び中心の園か、という傾向で、
各園をまずこの2パターンに分類しています。

遊び中心の園を敬遠するする保護者というのは
一定数います。

また、遊び中心の園に通わせてはいるものの
お勉強園に通う子どもたちの、
「できる」姿を見て、
焦ってしまう、という方も多くいる印象です。

そもそも、「お勉強」と「遊び」という
二つの言葉が
イメージ先行なのだと思います。

私は子どもの遊びとは、
能動性と環境が伴った時に
最大限、脳と心に自ら良質な刺激を与えるものだと思っています。

それは遊びと呼ばれながらも、
実験的な要素が多く含まれるものです。
そもそも小学校以降の教科学習は、
自然科学が基にあるので、
自然科学からの感覚を認識している方が
圧倒的に学力においても強いです。

感覚的な学習、時間的変化を感じる学習、
そして能動性と主体性、感動が含まれていて
遊び以上に最大の学び方というのが
今のところ思いつかないですが、
世の中では「ただ、遊んでいる」子どもの姿
として、特に肯定されずに見られることが多いです。

対してお勉強園と言われる園。
さまざまなカリキュラム、体験型の活動を、
「こなす」ことがメインとなります。
能動性や主体性というよりは、
先生や講師の指示に的確に従うこと、が要望されます。

子どもは、習慣化されたプログラムに順応するのは早いし、
ストレス表現が少ない子も多いので、
特に問題ないように見えることの方が多いですが、

子どもたちの価値観や潜在意識の中に
「成果主義」が取り込まれたり、
自尊心が育たなくなってしまう現場は
とても多いなと感じます。

学校の理科の時間に一切の実験をせず
全時間プリントを行っていたとしても、
それも学習であることには変わりはありません。

しかしそれを
素晴らしい学習方法だと思える方は
きっと少数だと思います。

幼児期に詰め込み教育をしたところで
それがあまり意味がないことは研究で明らかになっていますが

まだまだ、見栄えのする、イメージのいいやり方に
惹かれる人が多いのだろうなと思い、

ここに投稿してみました。




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