オタクは男らしさから逃れられるのか

オタクはアンチ男らしさ的であるという、しかしオタクは本当に男らしさから逃れられているのだろうか?オタク自身はインドアであり、確かに男らしくないだろう。一方、オタクが好む創作物はどうだろうか?

例えば、少年漫画。主人公は確固とした目的を持ち努力している場合が多く、非常に男らしい場合が多いと感じる。これがライトノベル等、オタクよりになっていくにつれて巻き込まれ型のような主人公が増えていくような気がする。メインにヒロインを据えて、主人公が巻き込まれるといった作品はオタク的に感情移入しやすかったのだろう。00年代に多く見られたような気がする。しかし、彼らもヒロインに惚れられるには男らしさが必要であった。ろくな能力を持っていないのにヒロインを助けようと奮闘する等、オタクが感情移入しやすいような平凡な人間が精神的男らしさを発揮してヒロインに惚れられるのである。結局はオタクも男らしさから逃れられていなかった、なぜなら女を惚れさせることに男らしさがないと現実味を感じられなかったからではないだろうか?

そこで唯一、男らしさから逃れることができたものは女性しか出てこない日常系作品ということになる。恋愛という要素が絡まなければ、男らしさが必要になることもないのだ。少女の日常を眺めて萌えるだけ。男は存在がいらない。そうして、オタクの一部は男らしさから逃れることができた。

しかし、ヒロインとの恋愛を諦められない層も当然いる。そして、なろう系と言われる作品が流行りはじめる。主人公は幸運にもチート能力を授かるという男らしさの欠片もない話である。そして、主人公も『スローライフ』だの『隠居生活』だの、その能力を世界を救う等というものに使うつもりもないような男らしくない人間であることが求められているようだ。精神的な男らしさもなく、ただ単にチート能力を振るうだけ。しかし、ここでも結局はヒロインに惚れさせるために行為としての男らしさを必要とした。簡単に言えばチート能力を振るい、なんの苦労もしないけれども、行為としてはヒロインを助けざるを得なかった。結局は恋愛という要素を入れる限り、男らしさから逃れることができていなかった。

ここで、作品に対しての現実味というものが大していらないのではないかということに気付きを得る。ご都合主義の極みとも言えるチート転生なろう小説を経て、女に惚れられるのに別に男らしくなくても無条件でもいいのではないかという読者層ができあがる。なろう系現代恋愛では、惚れられる理由も特にないけど取りあえず美少女に惚れられてアタックをされるという、少女漫画の性別を逆にしたような王子様願望に溢れる作品が散見される。こうして、また一部のオタクは男らしさから逃れることができたのだ。

オタクは男らしさから逃れられたのだろうか?結局は多くの作品は男らしさの規範に則り進行していると言わざるを得ない。現実に女性が男らしさを求めない、新しい規範を創り出さない限り男らしさから逃れることはできないのではないだろうか。

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