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固定派が強めの表現で苦手な何かを否定・拒絶する機序の考察と、そこから発展して色々書いた

・はじめに

 地雷持ち腐女子が強めの表現で何かを否定・拒絶しようとする論法が話題になっていたが、これは以前バズっていた「女性オタクの棲む暗い池について」という記事にて言及されていた、「『自分の気持ち』を主語として被害の発生を申し立てる」という批判方法に近いものがあると思う。

 「一週間引きずる」とか「ショックで寝込む」等、自分の気持ちを表すワードがインフレしているのは「これだけ傷つけられたのだから、非は向こうにある」というのを示したいのかなと自分の経験を踏まえて思う。何を隠そう、私も過去に推しキャラや推しカプの解釈を巡って荒んでいた時期があるので、そういうメンタリティは何となくわかるつもりだ。

 ではどうしてそんな風に傷つけられたことを主張したり、そもそも推しキャラや推しカプの解釈を巡って荒んでしまうかというと、「自己肯定感が極度に低い」というのが要因のひとつとしてありそうだと自分の経験を踏まえて思う。

・自己肯定感の低さが、いかにして苦手な事物への強い拒絶を引き起こすのか

 自己肯定感が極度に低い状態だったときは、自分と異なる嗜好を持つ人と出くわすだけで「自分の嗜好が間違っているのではないか」と思ってしまうことが割とあった。その防衛反応として「自分をこれだけ傷つけたのだから、間違っているのは向こうの方だ(だから私が間違っているのではない)」というメソッドが構築されるんだと思われる。今はSNSで「地雷がなくてたくさん見られる方が得」とか「左右固定に拘るのは異常」みたいな意見を多々観測できるため、尚のこと「自分の方が間違っているのではないか」と思い込みやすくなり、このメソッドに陥ってしまう。

 この状態から脱するには、自己肯定感を上げていくのが一番手っ取り早いだろう。とだけ言ってもかなり抽象的なので、もう少し具体的に書くと

①自CPについて「正しい・正しくない」より「己の好き・萌え」を優先するマインドセットに切り替えていく
②他CP者が目に入っても「この人からはそう見えるんだろうな」くらいの温度感で受け取るようにする
③嫌いなものに対して「なぜ嫌いか」と他人に説明できるような理由を律儀に見出さない

 こんな感じだろうか。特に①と②はセットで運用すると精神的にかなり楽になる。好き嫌いと道徳的な正しさを混同して語られがちな昨今だけど、別に道徳的に正しくないものが好きだとしても本来は何も問題ないのである。なので「このCPの魅力は私がきちんと理解っているので、世界中が逆や地雷CPを推しても問題ない」くらいに心の底から思えるようになれたら強いと思う。

 ③は、「特に理由がなくても何かを嫌いになっても良い」という思考を持つために重要である。あと「自分はこれが嫌いである」というのを明確に定義付けてしまうと、その定義に合致しないけれど嫌いなものと出くわしたときに、凄まじいストレスが発生する。

 加えて、「なぜそれが嫌いか」の理由を説明できるようにしてしまうと「その理由を論破できれば、認識を改めてくれるに違いない」と勘違いした手合が寄ってきてしまうというリスクもある。以前にも似たようなことを書いたけど、固定派がその手の人種と対話をするメリットは1ミクロンも無いので、最初から「嫌いなものは嫌い」って突っぱねてしまう方が時間も無駄にならないし精神衛生上良い。

 実生活において、合わない人と接する機会が生じるのは仕方ないことだ。しかし、趣味の世界では自分とソリが合う人とだけ交流するのが許される。そんな世界なのに、わざわざ合わない人とやり合ったり匿名でメッセージを送りつけるのはだいぶ不毛なので、やっている人は今すぐに止めた方がいい。今は開示請求も通りやすくなっているし、嫌いな人に変に関わって面倒な事態を自ら突っ込むのはマジで不毛極まりないので。

・自己肯定感の低さは、固定派特有のものなのか

 では、固定派以外の人たち(以下、記事内では固定派ではない人たちをまとめて非固定派と書く)はみんな自己肯定感が高いのであろうか? 結論から書くと、そんなことはないと思われる。

 過去に実際にあったわかりやすい事例として、

・リバ派が固定派に事前ブロックされたのを「加害」と認識して、「固定派に喧嘩を売ってみた」というまとめを作って固定派にお気持ち表明する
・非固定派が固定派に「ABとBAのどちらとも受け取れる作品を読むか」と質問したところ「読まない」と返されて、生きづらさや抑圧を感じて自分が納得できるまで他の固定派に絡む
 
 こういったものがある。
 この二つの例は、いずれも自分や自分の好きなものが相手に拒絶されたところから始まっている。自己肯定感が極度に低い固定派が「自分の嫌いなものを好きな他者がいる」ということに強いストレスを感じるのに対し、非固定派の場合は「自分の好きなものを他者に嫌われる・拒絶される」ということに強いストレスを感じているのがわかる。

 ここからは推論だけど、一部の非固定派は、そのストレスから心を守るために「固定CPは(任意の理由)で正しくない、私たちの好きな非固定嗜好(リバだったり左右不定だったり)は正しい」→「正しい私たちを受け入れない固定側の方が間違っている」みたいなメンタリティになっているのではないかと思う。

 詳しく書いてみると、地雷持ち腐女子のほとんどは自衛として自分の地雷であるCPや属性等を含む作品を上げるアカウントをブロックもしくはミュートするなどして、極力関わらないように自衛している。だが、非固定派からしたら、こうした固定派の自衛により「作品を見たい・見てもらいたいのに交流が一方的に遮断されている」というジレンマが発生する。そこで自己肯定感が極度に低いと「固定派から疎外されている自分は駄目なのかもしれない」という自罰的な思考にハマってしまう。そこに「自分は寛容である」という認知が加わると、「自分は相手に寛容なのに、相手が自分を疎外するのはおかしい(相手の方に問題がある)」という方向に飛躍して自分の心を守ろうとする……みたいな機序があるんだと推測する。これも推測ではあるが、固定派に無理に混じろうとする非固定派の心理の一端はこれで説明できるのではないだろうか。

 好きなもの・見られるものが多い非固定派は、共感できる範囲が固定派に比べて広いのは確かである。しかし、見られるものが多いのと他者に寛容であるのは厳密にはイコールではない。上に書いた事例のように、固定派から自衛されると抑圧や強いストレスを感じるだけでなく、それを晴らすために固定派に絡むのは「自分と異なる価値観を持つ他者がいることを受け入れられず、他者に己の価値観を押しつける」という点で過激派固定と変わらないメンタリティだ。だが、非固定派の場合は「自分は寛容である」という認知でいることが多いため、それに気づけない可能性が高くなってしまう。このため、自己肯定感が低い非固定派は、ある意味自己肯定感が低い固定派よりも注意が必要かもしれない。地雷持ちの固定派について「病院やカウンセリングに行ったほうがいい」とはよく言われるが、非固定側にもカウンセリングが必要な人、案外いると思う。

 固定派に自衛されたからといって、非固定派や非固定CPの価値が低くなるわけではない。そこにあるのは固定派から「これは合わないな」と判断されたから自衛されたという事実だけで、非固定が駄目とか劣っているという意味は全くない。そこを十分理解したうえで、非固定派の人たちも、己の自己肯定感を振り返ってみてほしい。

 余談だけど、今回の件にかこつけて「嫌いなものを指して地雷と称する表現も止めたほうがいいと思う」みたいなpostもたくさん観測できた。そりゃ表現に対する好き嫌いがあるのは普通だと思うけど、一方で「地雷」はもう今日び形容の言葉として定着しつつある現実(地雷系女子とか、そこから更に発展して地雷メイクとか地雷コーデとか)もある。なので、好きなものを「地雷」と形容されたくないという気持ち自体はわからんでもないけど、一般的に使われている言葉を「傷つくから使わないでほしい・使わないようにしよう」と呼びかけるのは過激派固定とあまり変わらんということに思い至っても良いと思う。というか、他人に「嫌いなものはスルーしろ」と言った口でそれを呼びかけるのはだいぶ面の皮が厚くない?って感じる。

・結論:固定・非固定問わず、自分と他人の嗜好や価値観をそれぞれ独立したものとして考えるのが大切

 結局のところ、固定も非固定も関係なく自分の推しや推しCPに対して「他人からどう思われようと自分はこれが好きなんだからそれでいい」って思える精神状態が一番健全なのだと思う。大事なことだから何度も書くが、逆CPや相手違いCPを好きな人が多くても推しCPが間違っているとか劣っていることにはならないし、他の腐女子に事前ブロックされてても自分や自分の推しCPの価値が毀損されたことにはならない。それを心から理解できると色々と楽になるだろう。

 だから「嫌いなものを公開垢で言わないようにしよう」みたいなのは、「自分の好きなものはみんなも好きである」という誤った認知に繋がりやすいという意味で、実はあまり良くないのではないだろうか。もちろん表現や言い回しにある程度気を遣う必要はあるけど、好きではないものを表明する行為自体を止めさせるのは、それはそれで不健全だと感じる。「嫌い」も価値観の一端であるし。

 前々から考えていたことも詰め込んだらだいぶ長くなってしまった。固定も非固定も平和に共存できたらいいと思っているけれど、共存とは必ずしもお互いの全てをさらけ出して受け入れ合う、という意味ではないよねとも思う。では何が正しい共存の形なのかと問われたら、それはお互いが無理せず、居心地良く過ごせる関係を築くことなんだろう。だが、それには決まった形があるわけではないので、どうにか手探りでやっていくしかない。言うても同人は一人でも普通にやっていける趣味なので、あまり気負わなくてもいいのかもしれない。

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