言葉の居留守

あっという間に冬将軍に袈裟斬りにされた気分だ。気づけば夜が本来の美しさを取り戻し、月よりも星が存在感を取り戻す。色んなところで繰り返し言っている気がするけれど、冬の凛とした寒さがとても好きだ。纏いつくような香りが一切なく、心の歪さを撫でてゆくその潔い寒風を、私は愛する。

日々の忙しさにかまけていたら、言葉を使うことをすっかり忘れてしまったようだ。あんなにも焦がれ妬み愛した私の言葉も私の文学も、どこにいるのか、居留守を決め込まれている。チャイムを押してもノックをしても、一向に現れない。私はなすすべもなく、玄関先で立ち尽くしている。向こうからは私の呑気な顔が見えているのだろうか。

言葉や文学は、いつも、寂しさや悲壮感を好むように思える。私の呑気な顔などまったくお呼びでないのかもしれない。忙しい割に変な高揚感を感じている私のことを、見抜いているのか。
潔くありたいと思うばかり、少し嫌だと思ったことを毛嫌いするきらいがある。けれど、本当は嫌いではないし好きにもなれるのだと、今更ながらに気づいた。嫌なところもあれば好きなところもある。人間みんなそんなもんだ。そんなものなのだ。ものなのだよね。
言葉や文学は聡明で、そういう、私の迷いをいつも見抜いている。と思う。言葉や文学のことも、少し嫌になった時期があって、嫌いになろうとしたけど、なれなくて、やっぱり書きたいと思っているのだ。そういうのを認めないといけない。
だから、私が迷うあいだや、私が私の真理に近づかないと、出てきてくれない。まあ、出てきてくれたところでそのものの大きさに戦いて、今度は私が居留守を決め込むんだけど。

今日もまた、私はノックをする。私の言葉や私の文学が、この寒空の下に出てきてくれるのを。そして、呑気な顔をしながら冬の美しさについて大切な人に伝えるための言葉や文学を描きたいのだ。