Day26

6:00AM

携帯のアラームが鳴る。目覚めは静かな方が好きだから、オルゴールの曲にしていたはずなのに、寝ぼけていたのか設定を間違えたらしく、機械的な電子音の連続で起こされる。酒を飲んだ次の日は目が明かない。けれど、酒を飲んで遅くに帰ってきたのでもう明日の朝でいいやと化粧だけふき取りシートで落として昨日はそのまま寝てしまったので風呂に入らなければならない。大体みんななんで夜に風呂に入る習慣を作ったのだろう。朝入ったって、昼入ったって、どうせ24時間おきにしか入らないんだったらどうでもいいだろ。起き上がっても上下のまぶたは固く閉じていて、当たり前に眠い。下着と服をクロゼットから適当に取りだし、一瞬、網戸から溢れる肌寒い風に立ち止まり、服を選び直して脱衣所で急いだ。

8:00AM

朝風呂に入ると髪の毛の具合がいい。具合が良い日は髪は結わない。中途半端に伸びた髪の毛が肩にあたって微妙に跳ねている。白いカラーの、青いストライプシャツはお気に入りだ。自分の距離だからわかる自分からするせっけんの素朴な匂いに少し満足した。でも、まだ眠い。何度か手櫛で髪の毛を整え、チノパンにネイビーのパンプス合わせる。玄関の姿見で全身をチェックして、家を出た。私以外の家人はまだ寝ている。

10:40AM

人事課の巻ちゃんと十分だけお茶をした。もっぱら上司の考え方が気に食わないという話をしている。巻ちゃんは頭が良いので、要領もいいし、考えがしっかりしている。あんなふうに言ったら柘植さんだって気にするのにわかってない、こうやってもっていけば部長だってOKだすのに、とか、言う。私は、ふんふんと聞きながら、巻ちゃんの聡明さに感心してばかりいた。鼻梁が高く、いかにも美人な巻ちゃんは知り合いも多い。休憩室に出たり入ったりする社員はみんな巻ちゃんに声をかけていく。私もそのうち数人は知り合いだけれど、みんな巻ちゃんの方を見て話しているのでできるだけ声を出さなかった。そういう、たまに矮小な自分を、巻ちゃんに気付かれていないといいと思う。巻ちゃんは屈託なく笑い、夏休みどっか行こうね、と、誘ってくれるのだった。

12:15PM

備品管理課の佐伯さんとお昼ご飯へ行こうと思ったら、かなりの大雨で結局社内食堂で済ませた。あまりおいしくないため、雨なのに空いている。なんか油くさくなるんだよね、と、佐伯さんは食堂に入ったばっかりなのに体を嗅ぐからちょっと笑った。今年度に入って辞めてしまった私の同期のえみちゃんがもともと備品やっていて、えみちゃん伝いで佐伯さんとも仲良くなった。佐伯さんもそうだし、巻ちゃんもそうだけど同じぐらいの歳なのにどうしてそんな風に仕事ができるのだろう、と、疑問に思うし自分も情けなく思う。佐伯さんはAランチ(シチューとアジフライと小ご飯がついてくるかなりボリュームのある謎のランチ)をぺろりと平らげながら、「ていうかほんとに上までの意思決定取るのがほんとに大変。ころころ変えるし、なんていうか現場のことわかってないよ。削るべきはそこなのかって感じじゃない?」と溜息をついた。佐伯さんは高学歴で、溜息すら聡明に見える。そうですよねえ、と、私は答えながら、ビビンバ丼を少し残した。ガラス張りの食堂が雨で包まれている。

14:50PM

後輩が伝票処理を間違えたと言って泣きついてきた。といって、言葉通りに泣きついてきたならかわいいものだけど、どこか憮然としていて本当に反省しているのかどうかがわからない。「内藤さん、あの、この伝票間違えたっぽくて」「ぽくてって何?間違えたの?」「はい、たぶん」「いつきったやつ?システム間に合うかもしれないけど」「いや、それは無理なんすよ、一週間前ので、更新済みのあれなんで」「じゃあすぐシステムの方電話して」「いや、でも間に合わないから無理じゃないっすか?」「無理でも電話して」新人類だ。彼は最初、電話を出るときも保留の仕方を教えたのにもかかわらず、保留にしないで「なんかテレコマースの……えーと、赤城みたいな人です」と言ったので冷や汗をかいた。電話口の赤井さんは良い人だったからよかったものの。

17:20PM

後輩の尻ぬぐいで結局システム課まで謝りに行って、一日が終わった。自分の仕事はまだ机上に残っている。後輩のために先輩が謝るのはいいけれど、私以外の男連中が、ミスをした後輩に「いやいやよくあるよ、大丈夫大丈夫」などと声をかけているのに腹が立った。どうして経理なのに私以外に女がいないのか。窓越しに、佐伯さんが帰っていくのが見える。ちょっと恨めしく見ていたら後輩が、また書類を持って立っていた。嫌な気しかしない。

20:34PM

明日までに人事に出さねばならない書類を後輩が止めていた。彼だけでできる仕事なら彼に残業してもらえればいい話だけど、一年目の彼ではできないことだった。それをやらせた上司の気がしれない。そしてやっぱり、それを聞かないで放置していた後輩の気もしれない。さすがに申し訳なさそうな顔をしていたけれど、もういいよ私やるよ、とあずかって帰らせた。昔の資料を引っ張り出してきてにらめっこする。花の金曜日だからといって、毎金曜日に早く帰れるわけでないけれど、まだあと二時間は残業する現実にうんざりする。いつのまにか、私も社会人の端くれになったものだ。想像でしかなかった、オフィスで一人残って仕事をしているという姿が、想像の頃はかっこよく見えていたのに、今はひどくむなしくて馬鹿らしい。

23:30PM

ようやく家に帰っても、遅い時間で夕飯を食べる気にもならない。そういえば親も今日から土日でどこかに遊びに行くとか言っていた。どうやら雨戸は全部しめていってくれたようだけど、風呂はもちろん沸いていない。ああ、もういいかな明日の朝で、と、リビングのソファに倒れ込む。このまま寝てしまいそうだ。私以外誰も存在しない二階建てのこの家に、静寂の音が詰め込まれている。その空気と一体化して、私も家の一部となる。深い吐息が全身の、奥底から、溢れだす。あぶない、寝てしまう。寝るならやっぱりベッドに行かねば。夜に風呂に入る習慣をつくったやつのことは憎いけれど、ベッドや布団で寝る習慣をつくったやつのことはほめたたえたい。
自室に上がる前に脱衣所へ寄って、化粧のふき取りシートで顔をこすりながら階段を上がる。目に染みる。コンタクトを取るのも面倒だ。
誰もいない空気を切り裂いて私はベッドへ倒れ込み、一日中見る暇のなかった携帯を握って電気を消した。売上の良い営業一課の田端さんは個人の携帯を取引先にも教えて、休日でも要望とあれば駆けつけるのだそうだ。一度だけ田端さんがいた飲み会で話をしたとき、公私分けられなくて大変じゃないですか、と聞いたら、田端さんは「どうして?」と聞いてきて、そして「人に必要としてもらうのは嬉しいし、頼ってもらってるってことはこっちに期待してくれてるってことだから、ぼくは嬉しいよ」と笑顔で言うのだった。こちこちに固まった彼の笑顔は(私の偏見だけど)、どんな言葉も寄せ付けない。私みたいに、一日携帯を見なくても支障がない人間とは違うんだろう。
あー、と、無意味に声が出た。私、このままちゃんと仕事できるんだろうか。巻ちゃんや佐伯さんみたいになれるのかな。なれないだろう。馬鹿らしい。なったところで、どうってこともないだろう。でも、なれるなら、ああいう風に頭良く要領よく仕事がしたい。でも、無理だ。だって私は私の方法でしか仕事ができない。田端さんみたいに、どんな人と話すときでもにこにこなんてできない。新人みたいに間違っていても謝らないなんてこと、できない。

24:00PM

持っていた携帯がちょうど震えて、メッセージの通知が画面に現れる。ロック画面から待ち受けに移動すると、メッセージアプリに何通かメッセージがきていた。
「誕生日おめでとう!26歳だね」
「まるみちゃんおめでと^^」
「今度ご飯に行こうね!プレゼントではないけどおごるよ~」
そして、さっき届いたメッセージは巻ちゃんからだった。
「まるちゃん誕生日おめでとう。まるちゃんも26歳だね。私は26歳のときが一番節目だったなーとおもうよ。まあ一つしか違わないけど(笑)。これからもたくさん遊ぼうね。」
あ、と、思って待ち受け画面に戻り日付を確認する。26日になっていた。そうか、誕生日だった。こんなあっけなく歳をとるんだな、と思うと、笑ってしまう。時間は進むばっかりだ。巻ちゃんの言う節目なんて、いつくるんだろう。昨日の私と今日の私と明日の私はたぶん、何にも、変わらない。一年後の私も、今日みたいに後輩にイライラしてばっかりかもしれない。
でも、歳をとるなんてそんなもんなのかも。わかんないけど、わかんないことが悪い、なんてことも、たぶんないんだろう。

お風呂は明日だ、と、決めて、アラーム音の設定をオルゴールにしようとしたのに、そのまま寝てしまったらしく、結局次の日も機械的な電子音で起こされてしまった。