おとな

友人と出かけていて、ふとスマホの液晶を見ると午後五時を過ぎていた。子どもの頃の門限の時間だったのをふと思い出した。門限を遵守しなければならなかった子どもの私は、いち早く時計の読み方を覚え、遊び場から家までの最短の帰宅ルートを考え、所要時間を考え、遊んでいた。午後四時半になるとそわそわしだして、まだ公園で遊ぶ友人やプリクラに執心する友人を残し、一人そそくさと帰路についたのだった。でも、今は午後五時を過ぎても八時を過ぎてもそわそわなんてしない。仕事が遅ければ日付が変わってから帰ることもある。帰り道、午後十時をすぎると点滅信号を通り過ぎるとき、おとなになったのかもしれない、と、アクセルを踏む。

おとな、になった、と自分がなんとなく意識し始めたのはいつだろうと考えていたのだけれど、当たり前だけど明確な時期があるわけではなかった。ことあるごとに、たとえば肌の調子を気にして化粧水をつけ出したり、マスカラを塗っても怒られなくなったり、門限がいつのまにかなくなっていたり、好きな服や靴を自分で買えるようになったり、夜遅くまで起きていても漫画を読んでいても怒られなくなったり、不遜な態度をとっていても放っておかれたりする、そういうときに、わたしは勝手におとなになっている。確かに、子どものころは、おとなになれば夜更かしもできるし好きなときに服が買えるし門限を五分破っただけで家から投げ出されないからそうなりたいと、窮屈な思いなんてしたくないと、確かに思っていたのに、やっぱり子どもは自由でおとなは窮屈だと、思ってしまう。

子どもの頃の方が、もっと自由にのびのびと人のことを嫌いになれた。もっと自由にのびのびと人のことを好きになれた。なんてことを、思ってしまう。くだらないとわかっていても。おとなは理由が多すぎる。おとなは言葉を覚えすぎる。おとなは、おとなは、おとなは。

いつだってなんだって、ないものねだりなんだ。子どもでも、おとなでも、わたしは。