醜い私に

二つ下の後輩が、結婚するという。ずっと黙っていたのだけど、私も近々結婚するよ、と告白したら「なんだ、私たちと同じじゃないですか。なんで言ってくれなかったんですか」と言われた。内心、一緒にするんじゃねえよ、と思いつつ、「あまりそっちの話が進んでいなさそうだったから」とよくわからない言い訳をした。私と同時期に後輩がプロポーズをされたことは知っていたが、後輩の母が後輩の恋人のことをよく思っていなかったのでなかなかお目通りがかなわないという話を聞いていたのだった。「それに、はなえさん、一年じゃ早いって言ってたから」と、本人はその気がないのだろうが非難めいたことも、後輩は何の気なしに言う。彼女の母が恋人をよく思わないことのひとつとして、一年も付き合っていないのも原因のひとつではないかと私が推察したことを言っているのであった。後輩は私よりも半年ほど後に付き合い始めており、プロポーズを受けたのも一年経つより前だったので、私は正直驚いたのもあった。
恋人の付き合い方などさまざまではあるが、後輩の恋人のことは知っているのだけれどもあまり好きにはなれなかったので、放っておけばいいのだろうが、後輩の、たまに不躾な物言いに苛立たしさを覚えてしまうのであった。
一緒にすんじゃねえよ。私と、私の恋人を、お前とお前の恋人と一緒にすんじゃねえ。後輩の恋人の話にはとんと興味がないのだが、彼女がたまに見せる嬉しそうな顔に負けて、聞くのだけれども気の利いたコメントは、今まで一つも浮かんできたことはない。我ながら醜いな、と思うのであった。後輩に幸せにはなってほしいけれども、その男じゃなくてもよいのではないかと思う。ということは口が裂けても言えない。醜いものよ。

自分の思うことは、自分の中では正解であったとしても、その他多数の中では微妙な答えなときもある。それを、多様性を思えばいいのだろうけれど、どうしても会社という集団生活では「誤りだ」と感じることが多い。大丈夫、そういう考え方もある、と言われたところで、結局そのとおりにことは運ばないのだから「そうじゃないけれど大丈夫」と「誤り」の区別はどこにあるのだろう。矮小な考え方しかできない自分を醜いとも感じるし、そういう思考に目がとまると、途端に息苦しくなってくる。

三月に人事異動があり、長く務めた部署を移動になって、まったく畑違いの職務についている。畑違いというか、また一から植えられたのだけれど。相変わらずなじめないし、自分の思うことを「誤りだ」と感じることも多い。なじめない、と思えば思うほど部署の人間を憎らしく思えてしまって、日々自分の「醜さ」に拍車をかけているようでもある。それでも、今の部署の自分のデスクに腰かけて、クソの役にも立たない来年や再来年の事業計画などを考えている。目の笑っていない上司と話さないで済むようにコソコソすごし、四つも年下の後輩から仕事を教わる。数年前まで、高らかと希望を語って同僚たちと仕事をしていたのが嘘のようだった。
大切な先輩には、「なじめないそんな奴らよりももっと大切にするべきところがお前にはあるはずだから、そんなことで気を落とさなくてもよい」と諭される。そうして「どうしても納得いかなかったらとことん語りかけるべきだ」とも言われる。大志がある者の言葉だと、心が跳ね返した。そしてまた、自分の醜さに辟易する。
そんなことを恋人にヒステリックに言うと、「大丈夫、醜くないよ」というのだけれど、無理に言わせているようで結果としてやはり自分は醜いのだと思えてくる。思考の渦はとめどなく続いている。夢の中にだって追ってくる。

自分らしく生きるとか、一生で一回の人生とか、自分に嘘をつかないとか、みんな美しい。そりゃ私もそうなりたい。
後輩の恋人の話を笑顔で聞きたいし、ラブラブだね、なんて気の利いたことも行ってみたい。目の笑っていない上司には笑顔で質問したいし、四つ下の後輩にも聞かないで仕事を進められるようになりたい。大切な先輩にも大きくうなずきたいし、恋人にはありがとう大好きと素直に伝えたい。夜はぐっすり眠りたい。

醜い私にも、希望はほしい。