おとなのおとなり

今日でnoteを初めて一年になる。というのは少し語弊があるかもしれない。365日が一年だというのなら、本当なら2014年8月31日から2015年8月30日までで一年だろうと思う。普段そういう日付をせこせこ追う仕事をしているから、寛容な心がすり減っている。しかし、すり減るというのはもとに戻らないような気がするから、これもまた語弊がある。心はきっと、少しずつもとに戻るはずだ。私はそう信じている。そう思っている。

一年前のnoteを読みかえして、この一年あっという間だったと感じた。子どものころは、本当に、一年が長くて長くて憂鬱で、だのに、いつからか一年がぐっと早くなったように思う。ある人曰く、子どもの体は代謝が早いために体内時計も早いのだそうだ。だから、体内時計の感覚でいると、標準時を遅く感じるのだという。大人は反対に、代謝が遅いために体内時計が遅いのだそうだ。だから標準時を早く感じるらしい。本当かどうか、調べたことはない。そんなことを調べたって、自分の実感は変わらない。一年は日に日に早くなっていくばかりだ。その最中にいては気付かないのに、ふと思い返し振り向くと、自分の歩んできた日々の、積み重ねに、驚く。たまに、ああ、死ぬのもすぐだなと思う。これを大人になったと形容していいのかはまったくわからない。一年分のnoteを読みかえしたところで、一年前の精神性と今の精神性が変わっているかと言うと、そうでもなさそうだ。むしろ、退行しているのかもしれない。

大人になると、すぐに面倒くさがるなと思う。細かに仕事をすることや、誰かに教えること、人と向き合うこと、自分を大切にすること。日々のスピードに押し流されるばかりで、そういう、見て見ぬふりができてしまうんです。ゆゆしき事態だと思いながらも、それで助かる人もいる。大人というのはずるい。そうして、弱い。

前にも書いたような気がするが、大人になったらもっと自由に振舞えるのだと思っていた。小学生の頃、思春期を迎えたクラスで私は行き場を失っていた。女子グループ特有の、バカみたいな仲間意識とランク付けとによく苦しんでいた。昨日まで一番仲良くしていた友達が次の日は無視をする。一週間後、仲間外れにされているのはその友達で、私は平然とその子を無視していた。
そういうことから、逃れられるのだと思っていた。

もちろん、そういうことで悩まされることはほぼない。仕事でそんなことは許されない。給金をもらって仕事をしている以上、私情で会社の損になる方向に動くべきではないし、物分かりの良い大人はわかっている。そして覆い隠すことができる。でも、覆い隠していることも、私たちは知っている。だから、面倒なのだ。思いやりや、気遣いは、相手のためになるはずなのに、自分の首を絞めてくるから、いつの間にか相手を嫌うようになってしまう。そんな気がする。大人になったら、もっと、自由に、誰かを好きになったり嫌いになったりできるだと思っていた。大人だからそう思うのだろうか。そうして、大人は面倒臭がりだから、好きとか嫌いとか、労力を使う感情の根源に向き合わない。

私も大人だ。大人だけど、ちゃんとした大人にはなりきれていない。わかっている。向き合ったところで、大人が生きる場所は社会であり、社会の中で感情は覆い隠すべきものであること。それでも、私は、大人になりきれないから、感情の根源を探りたい。大人たちの中で、私は大人のとなりに立って、背伸びをしている。大人の気持ちが知りたくて。大人の心が知りたくて。つま先がいたくても。

そして背伸びをして覗いたときに、心がすり減る。撫でられる程度かやすりで削られる程度か、その時々にもよるけれど、どうしたってすり減る。背伸びをやめて、見ないふりをする。だけど、だからといって、私は子どもに戻れない。子どものスピードで、生きてはいけない。おとなのとなりで、しょぼくれるだけだ。一か月だって二か月だってしょぼくれている。長いときは半年だって。そういうとき、私も大人になったような気がする。だけど、その時は素直に子どもでいられるような気もする。素直に自分の気持ちに従うから。

結局一年、そんなことの繰り返しだった。大人と子どもの間を行ったり来たりしているだけ。それりゃあ成長しているようで、その間にいるだけだから、そんなわけもないんだな。

そうしている間に、いつかぽっくり死ねたのなら、本望だ。