Uncertainty

知り合いが、病気であまりよくないというので、病にご利益があるという寺へ行ってお参りをしてお札とお守りを買ってきた。奥まった場所にあるそこにいる人たちは、当たり前(なのか)に神妙な面持ちをしていた。私も例に倣って神妙な面持ちで賽銭を投げ、祈る。祈るが、何をどう祈っていいのかわからなくて、ぎこちなく、知り合いが平癒するようにと、文字を頭の中で並べたてた。祈る、というのは、不思議な行為だ。無欲で無垢なものほど、神や仏に救ってもらえそうなのだけれど、そういう場所に来るというのは「どうにかしたい」という欲の現れな気がするから、神や仏に見向きもされないのではないだろうか、と、たまに思う。けれども、祈らねばこちらの思いは伝わらないのだろうし、届くのか不確かだと思いながら、知り合いのことを考えた。一つのことを一心に願うというのが中々苦手なのもあるのだろう。願いごとを文章化して文字を頭に並べないと上手く考えられないのだった。

帰り道、不謹慎だとは思いながらも、その知り合いが仮にこの世からいなくなったらと考えた。考えたけれど、何ひとつリアリティがなく、何も変わらないのだろうということを考えた。長くないのだ、と、知り合いと電話をしたとき、私は思わず泣いたけれど、その時の気持ちはもう忘れてしまったし、知り合いがいなくなったら、きっとまた泣くだろうけれど、どうして泣くかは不確かで、掴みようのない気持ちになるのだと思う。今、そんなことを考えること自体がナンセンスなのかもしれないが。

私たちの日常は、それでも不確かなもので成り立っている。仕事の行く末や何気ない会話に見え隠れする意図や、感情や、関係性。生きるということ自体、不確かだ。親と味のしないご飯を食べたり、恋人と名残惜しく飲むコーヒーも、実はとても不確かなものではないかな。そういうものを、私たち、というか、私は、すぐに忘れる。そこにずっとあるのだと思っている。確かなものだと、不確かな確信を得ている。ね、不確かでしょう。