なにもないから

あんまりにも寂しさが興じすぎると道行く人を捕まえて「私のこと好きですか?」と訪ねたくなる。発狂して、前後不覚になりたくなる。でも、恥も外聞もありますので、今日も至って平常運転で寂しさを興じさせているだけだ。道行く人なんか捕まえて聞いたところで、好きなんて答えが返ってこないことも、わかっているのです。

私にはこれといったとりえがない。中学生までは絵に描いたような優等生で勉強もそこそこできたが、高校生になると周りのレベルも高くてなんとなくすごいと思う人が増えてきて、だけどまだ、少し優等生だった。大学生になって、ほんとうにすごいと思う人ばかりになって、そうしてやっと、自分の空っぽに気づいた。気付けたのか気付かない方が幸せなのか、だからってなにがどうなるわけでもなくて、身近にいる友達がとても眩しくて格好良くて頭が良くて大好きな反面、どんどん重くのしかかってくるように思えてきて、そうしてまた、自分の空っぽが大きな音を立てるのだった。

世の中を回す人は須らくすごい。大企業のCEOも、バリバリの証券マンも、安月給の介護士も、難民のために働くボランティアたちも。が、やっぱり一番すごいと思うのは身近でくだらない話をする友達たちの頭の良さを垣間見た時だ。彼らは別に、私のような絵に描いたような優等生時代を生きてきていないのだと思う。そういう子もいたかもしれないが、私の型にハマりっぷりは早々真似できないと思う。なぜならメガネをかけたお下げの少女だったのだから。

彼らには、私から見たとりえがある。何かを追究する心がある。精神力がある。美しさがある。私にそれらはない。それらが備わる設備がないのかもしれない。

彼らのことが大好きだから、私はどんどん空っぽになる。彼らの輪に入って笑うとき考えるとき思い悩む時、でも、それはなんだか、美しい白鳥のなかに混じった鵯の気持ちにも似ている。白鳥たちは優しく優雅に翼を伸ばし競うが、鵯はキィキィ鳴いてみるだけだから。卑下しすぎだとわかっていても、やめられない。空っぽの心から湧き上がるものはない。なにもないので、干からびてヒビが入るだけだ。

おかしいなあ。一週間前までは、自分の顔がちょっと好きになってて、化粧をしたらそれなりに綺麗なんじゃないかって思っていたけど、今は、鏡を叩き割りたい。この世で一番醜いものは何かと聞かれたら、今は自信いっぱいに自分、と、答える。クソッタレだ。
パソコンで文字を書くのが好きだったのに、今は、パソコンをつけてデスクトップに張り付いた、書きかけの小説が散らばっているのを見るのが苦痛だ。やっぱりここに戻ってくる。自分がなにもないっていう、場所に。

なにもないから、飾ろうとする。なにもないから、満たされようとする。でも、なにもないから、なんにも、ないのだ。音ばかりが大きくなる。何をしたって、誰といたって。

好きだと言って欲しい。よくやっていると褒めて欲しい。

たぶん、自分自身が、自分自身に言えるようになるのを、私が一番求めているのだろう。だからもうずっと、癒されない。許されない。満たされない。

やっぱり道行く人を捕まえて、片っ端から好きかどうか聞くしかないか。