ドリームハイツ(11)

 沈降するサスペンス。
 「するとその重力とやらが人々と神を対立させていると」
 「そうだ。我々と神が真の共存を果たすためにはまず重力そのものを操作せねばなんねんだ」
 若き王が地下牢の言語郎を足繁く訪ねるようになって、間もなく一年が過ぎようとしていた。
 初めて王宮の地下へと下りたあの夏の日、若き王は自らの心中にわき起こる恐怖に戦いた。地下の暗さは外界に照りつける夏の陽光が入り込むことを頑として拒み、更には虫の鳴き声や風のそよぐ音など、地上に住む人間にとって耳慣れた音響を残らずすべて寄せ付けなかった。聞こえてくるのは石造りの階段を下る王自身の足音と、何やら呪文のような言葉をぶつぶつとつぶやく重苦しい男の声。若き王は恐怖に負けじと松明をかざし、その声の主を探し求めた。そして辿り着いた王宮の最深部。年老いた言語郎は痩せさらばえた裸体を牢屋の隅に横たえたまま、呪文を唱えることを止め、松明のあかりに照らされた王の両眼を格子越しに見つめて言った。
 「おめは誰だ」
 「私は王だ」
 「代わったのか」
 「先王は死んだ」
 「そうか」
 才能が豊かな者どうし特有の、明晰な会話であった。王は言語郎がこの地方に住むその他多くの人々とはまるで違った性質を持つ人間であることを、この瞬間に見てとった。
 「何をしていた」
 「計算」
 「あの呪文か」
 「書くもんがねぇから、口でやるのだ」
 「頭の中でやるのではないのか」
 「思考は流体だ。外に表し固着させなければどんどん先へ行ってしまうだ。声で文字を代用しているのだ。マグマは噴火口から溶岩になって表れて、初めて触れられるかたちになるだぞ」
 「なるほど。では書くものが欲しいか」
 「そりゃあもう」
 次の日、若き王は地下牢へペンとインクと大量の紙を届けさせた。言語郎がいつでも文字を書けるよう、地下にはあかりが灯されるようになった。もはや松明を掲げる必要のなくなった王は、週に何度も王宮の地下を訪ねるようになった。重苦しい呪文を唱える声がもう聞こえてくることはない。王が訪ねるといつも言語郎は、萎びた裸体を汗みずくにしながら、一心不乱に細かい文字で紙に数式を書き連ねていた。そして時には息抜きのように、若き王と形而上的な会話を楽しむのだった。政治に疲れた王にとっても、その思考と言葉の遊戯は最高の息抜きであった。
 そして冬が来てまた夏が来て、それから一年が飛ぶように過ぎた。
 「若き才気あふれる王よ。失礼ながら殿下にお頼み申し上げたい」
 「なんだ」
 「この紙に書かれたものを、牢のなかに届けてはくんねえか」
 格子の隙間から言語郎が、一枚の紙を王へ手渡す。そこにびっしりと小さな文字で書き込まれた工具の名称や木材の寸法を眺めながら、王が問う。
 「これで何をする」
 「解いたのだ。命題を。これがあれば人間と神との間に真の平和をもたらすことができるだ」
 王は即座に臣下へと命じ、地下牢へ工具と木材と、僅かばかりの金属片を搬入させた。そして搬入を終えた報告とともに、言語郎から自身への言伝を聞いたのだった。「今日からきっかり三週間後、殿下に地下牢へ下りて来て頂きたい。だからそれまではおいで下さるなと、そう奴は申しておりました」
 言葉通りの三週間後、王はひとり王宮の地下へと下りた。もはや初めて地下を目指したときの恐怖はない。いまは物理の天才としての言語郎への期待と、少しばかりの羨望が王の心中を満たしていた。石の階段を下りきって、見慣れた格子の前へ立つ。そしてそこに若き王は、ひとりの天才が孤独な作業の果てに成し遂げた、奇跡の所業を目の当たりにすることになる。
 言語郎は地下牢のなかで、民家の扉ほどの大きさの木の板に乗り、空中を船に乗るように浮いていた。板の表裏には丸い金属の輪が無数に取り付けられていて、言語郎はそれを握ったり放したりを繰り返していた。どうやらその輪によって、板が浮く高さや方向を調整しているようだ。
 目を丸くして言葉を失った王へ向けて、言語郎が誇らしげな声を上げる。それは最初に王が出会った、暗い目をした痩せさらばえた老人とはまるで別人のようである。
 「若き才気あふれる王よ。解いたのだ。命題を。俺は重力を飼い馴らしたぞ。これでようやく、人間は神と真の共存を果たすのだ」

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