ギョソ(3)


 狭い仮設住宅の部屋の中、ギター・アンプにベース・アンプ、それに小口径とは言えドラム・セットまで置いてあれば、そこに嵯峨が座れるような場所は残っていない。
 嵯峨は立ったままで壁にもたれ、部屋の片隅で腕組みをして、テング率いるパンク・ロック・バンド『耳の現場』のリハーサル風景を眺めている。
 「ひい、ふう、みい、よう」
 ニュウギュウがスティックを鳴らしながらカウントする声が聞こえ、テンポの速いマイナー・キイの曲がスタートする。サバクの弾くフェンダー・ジャズ・ベースが床を震わせ、ギュウニュウが弾くトーカイ・タルボが耳をつんざくフィードバック・ノイズを轟かせる。
 ヴォーカル用のスピーカ・システムが部屋には無いので、テングのマイクは十五ワットのポータブル・ギター・アンプに接続されている。大音量にセッティングされたアンプの効果でテングの声は歪んで響き、その劣悪な音質が、所謂パンクの文法に忠実な演奏の説得力を高めている。

 メッキが剥げたぞ ソーセージだぞ
 魚の粥だぞ 施しを受けよ
 テーブルの下に 隠れても無駄だ
 ほら貝の穴に 洗濯物を入れよ

 帝国は蕎麦屋 三丁目にある
 冷酷なお宮 貫一は死んだ

 難聴のカラス アフリカを目指す
 女の股旅 招かれざるねこ
 図鑑のページに 逃げこんだって駄目だ
 天ざるの汁に ガソリンを入れよ

 帝国は蕎麦屋 出前もやってる
 冷酷なお宮 貫一は死んだ

 汗と唾液を部屋中に撒き散らし、激しく身をよじらせながらテングが歌い叫ぶ。他のメンバーたちも頭を振って、楽器を叩き付けるようにして気狂いじみた演奏を繰り広げているが、嵯峨の視線はテングの肢体に吸い寄せられて、他のメンバーは全然視界に入らないし、バンドの演奏なんて全くもって聴こえていない。
 嵯峨がテングの腕、テングの脚、テングの胸、テングの顔をうっとりと見つめているうち、いつの間にやら曲が終わっており、どうだった? と息切れしながら感想を求めるテングの声でようやく嵯峨は我に返る。
 「ん。あー。よ、よ、よかったよ」
 「どの辺が?」
 お前聴いてなかっただろ、という思いをこめて、間髪入れずにギュウニュウが問いただす。
 「え、あの、あれ、ニュ、ギュ、ギュウニュウのドラムが上手かった」
 「てめぇ! 次また名前間違えたら殺すぞ」
 握ったドラム・スティックを頭上に振りかざしながら、ニュウギュウが大声で嵯峨を威嚇する。
 「え? お、お、おれちゃんとニュウギュウって言ったよお」
 「ギュウニュウって言った。てめぇこの間も間違えたよな」
 「ニュ、ニュ、ニュウギュウって言ったよお」
 「いやギュウニュウって言った。私も聞いてた」
 「待って。私にはギュウギュウって聞こえたけど」
 「え? ニュウニュウって言ってなかった?」
 「ああ、もしかしたらギョウチュウって言ってたかも」
 「最低。殺す」
 などと、バンドのメンバー全員が一緒になって、嵯峨がニュウギュウを何と呼んだか問題でフンキュウし、最早シュウシュウが付かない。
 「まぁまぁまぁ」とそこに割って入るのは、のらくる軍曹である。
 五人が立ったままで不毛な議論を戦わせている狭い部屋の中心に、くる病の後脚を震わせながらゆっくりと入って来ると、「ほら皆さんそろそろ夕ご飯の時間でありますよ。バンドはこれくらいにして、出掛けるのが吉であります」と言って、場の空気を一変させる。
 あ、もうそんな時間か、じゃ行くわー、と、サバクとニュウギュウとギュウニュウはアンプの電源を落とし、楽器をケースに収納し始める。
 「テングは?」
 「ああ、あたしは家に居るから」
 じゃ、またあとで、と言って三人のギョソが家を出ると、アンプやドラム・セットの並んだ雑然とした部屋の中には、嵯峨とテングの二人きり。三人が夕食を終えて帰って来るまでが、嵯峨とテングの蜜月である。のらくる軍曹は気を利かせて、音を立てずに仮設住宅の外へ出る。バンドの奏でる喧しいロックンロールが無くなり、元の無音に戻ったギョソンの夜がそこに在る。背中の毛が重たく感じられるような、ひどく蒸し暑いギョソンの夜。のらくる軍曹は扉の前に腰を下ろすと、持っていたパーラメントに火を着ける。深く煙を吐き出しながら、軍曹は進捗の順調さに独りほくそ笑んでいる。
 ぶふふ、嵯峨の間抜けめ。すっかりテング殿に夢中のようじゃわい。しかし東山の先生も頭の切れるお人じゃ。いきなり呼びつけられて、埋まったギョソを掘り出して来いと命じられた時には驚いたが、まさかこれ程巧妙なからくり仕掛けとは思わなんだ。
 それにしても全部あの先生の手のひらの上だもんね。参っちゃうよ。みんな東山の先生に良いように使われちゃってよう。あ、そういう儂だって先生の手駒か。まぁしょうがねぇよなぁ。あの先生にはかなわねぇもんなぁ。

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