理性でしかない「大人」の選択



「大人になると損得勘定で判断するようになるからね〜」
と、よく言われてきた。

たしかに、働きはじめると、
仕事という義務要素の強い時間が人生の大半を占めるようになるので、
大人が自由に使える時間は、有限だ。

そのくせして、
思考の面では学生ほど何かに縛られることなく、基本的に自由な選択が許される。

つまり、有限な時間で自由な選択をするほど難しいものはないから、
選び方の基準値を「自分」に合わせないと選択することさえできなくなる、ということは、
大人になった今納得できる。

加えて、この数年間はコロナの影響で、
自由に行動できていたはずの範囲にも
物理的な行動制限が強制的に課されてしまった。

すると限りある資源の使い方についての選択が、
どう使うか、
だけではなく、
誰に使うか、
というところにまで影響しはじめたように思う。


もちろんコロナ前にも人間関係を損得勘定で決めていた人は多くいると思うが、

不要不急の人との接触を強制的に絶たれたことで、「自分にとって誰との接触は不要不急なのか」ということを誰もが考えざるを得ない状況になった。

そこで、不要不急の関係である、大切なパートナーとの同棲や結婚を進めたり、

自分にとってどうでもいい関係性の人、例えば仕事など外発的な理由で接触機会がたまたま多かっただけの人との、自由な選択が許される時間内での接触をやめたりと、

知らない間に、自分の周りの人間に対して、
自分なりの基準で境界線をひくようになった人は多いような気がする。



まぁ、こんなかんじで、
大人の選択に対して、理性の占める割合は
非常〜〜〜に高いと思う。

わたしの場合も、理性が発達したおかげで、
大きな失敗をしたり、
誰かを大きく失望させてしまうことは、
昔に比べてかなり少なくなった。多分。

ただ、その分失われてしまったものも、
ある気がする。


わたしの心が喜ぶ瞬間というのは、

たまたまふらっと立ち寄ったカフェのブルーベリーが、粒が大きくて果肉感たっぷりで、思いがけず美味しかったり(今日)、

行く予定のなかった道を奥まで行ってみたら、
昔好きだったのに閉店してしまったお店が、なんとそこにオープンしてたり(今日w)。

そんなときに一番、心がぴょんぴょん跳ねてるような気がする。

これからもっと大人になって、どれだけ計画して高いところに登れるようになったとしても、
心の跳ねるポイントは変わらないんだろうなぁとつくづく。

そして、残念ながら、
理性による選択と達成では、
わたしにとっては物足りないということもなんとなく、わかっている。

大人としての行動をしながら、
自分の心を喜ばせてあげられるには、どうしたらよいのだろうか。

少なくとも今は、どちらかを犠牲にしなければならない(=併存しえない)のだろうなぁ、と思う。

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