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本妻探し ~巧妙に隠してるの?~

一夜にして大雪で一面真っ白です。ラブはつまらなそうですが、今日は無理ですね。お天気は良くなってますから、すぐに溶けていくと思います。ラブはテーブルに上がっていたづらしてましたよ~

昨日は朝から年表作りで、メモやパソコンとにらめっこ。9時間もやってました。何の年表?秋篠宮のタイとの交流や、タイの王女様との件ですよ。
紀子さんが第二夫人というのは本当なのか、なんて思ったら気になって仕方がない。
秋篠宮の本妻探しですよ。

秋篠宮がタイと接点を持ったと思われるのは、大学生時代の自然文化研究なるサークル活動というのは、以前、篠原丈一郎氏の動画配信で聞いていました。宮内庁のホームページで探そうにも、礼宮でも出てこないし秋篠宮に至ってはH16 年前は調べられないのです。だから平成の天皇の日程から調べたのですよ。海外に行くなら挨拶しますから・・・目がショボショボです。よく皆さんは、こういうのも乗り越えて調べてらっしゃるわあ、と思いましたよ。

その前に、彼の大学時代は昭和のため記録が見られませんでした。面白いのは、彼はオクスフォードには留学したことにも卒業したことにもなってません。在籍の跡がないから聴講生というのは事実でしょうね、通訳付きでホテル暮らしと聞いたことがありますよ。  
1965年(昭和40年)11月30日、誕生。

彼はなぜか大学時代に反抗期だったようです。私から見ると、僻み根性の妬み癖があるのを、コントロールできなかったのでしょうね、兄は何でも持っている、なんて思いを自分の遊びたい気持ちに利用したのでは?
自分の出自をある程度分かっていて、荒れることで関心を引き遊びに口を出させない、こんな駆け引きはしそうです。

美智子さんが、「この子は物事を深く考え受け止めるのは昔と変わらない」なんて言ってたと記憶してますが、反抗の理由をぶつけられてたのでは、と思いますよ。

同記事の「宮内庁OB」の主張をまとめると、兄の浩宮さま(現・天皇陛下、当時・皇太子殿下)にだけは「帝王教育」が実施されていました。また、割り振られる皇族費の額の違いなどから、ご自分との「身分差」の存在に礼宮様は「ショック」を受け、ノイローゼ気味になるほど悩まれた、             上記の記事より一部抜粋


1984年から1988年の間に何度タイに行かれたかは、わかりません。チュラボーン王女との初対面は日本ではないかと思うのです。1981年と83年にシリキット王妃とともに非公式で来日してますから、面識があったのでしょう。王女は82年には結婚されてますし、礼宮より9歳上です。

 1984年に大学入学し、85年からタイなどにサークル活動と称して出かけたのかしら?
もし王女と再会をしてるとしたら、大学在学中でしょうね。
そのくせ、86年には紀子さんにプロポーズしてますよ。

大学在学中の火遊びのつもりが、王女の心にも火をつけ騒ぎになったのでしょうね、
昭和天皇は皇籍はく奪まで口にしたというのを読みましたが、根拠がはっきりしません。また、川島は側女でももってのほか、と言われたとのことです。
88年学習院大学卒業後、6月には南米に公務で出かけてますが、この頃もタイに行っていたのでしょうね。その後英国です。
89年昭和天皇が崩御してますが、7月16日から8月18日までタイに滞在してます。王女はまだ離婚してませんが、前提で付き合い結婚の約束をしている???
不倫はあちらでは問題にならないのは、王族だからかしら?
一夫多妻の国ですが、女性の地位は低いでしょう?
一妻多夫なんてことは間違ってもあり得ません。
約束の意味の指輪の交換をしているのかしら。これに危機感を抱いて川嶋教授が怒鳴り込んだから、紀子さんは婚約にこぎつけたのでしょう。

プミポン国王は切れ者ですね。騒がず、双方の国家の体面を保ちつつ、秘密性も保持し秋篠宮にはチュラボーン王女の存在をしっかり認めさせ、お金も経済援助で引き出しタイを足蹴にできないようにしたのですよ。名君と言われるだけあります。

1990年7月1日に礼宮の結婚の儀が執り行われます。有名なシリトーン王女が家族と一緒に入場してますね。

大学在学中や留学中の事は、なにも調べられませんでしたが、秘密があるのですね。当時の週刊誌に出ていた愛人疑惑や子供の存在などが、巧妙に隠されていると思います。

今日はここまでです。続きは明日。

   もったいぶってはいませんよ。意外に字数を食いますので・・

      今日も読んで頂き有難うございます。❤️

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