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慰霊か、異例か⑵ ~旅もいろいろだけれど~

昨日夕方に突然やってきた娘一家、年末にこれないからと気を利かせた?
 私はブログで得た話を聞かせたいから、待ってました状態。少しでも長く居座らせようとお寿司を奢り、話しましたよ、
終戦時の例の4分割統治の話をじっくり聞かせましたよ。
「ふ~ん、そんなことがあったんだ」なんとも心細い反応、しかも!
「イクラ、もらってくね」 ああ、奢って正月用のイクラも見逃さず持ち帰る娘
 話も上の空で、世の中トントンにはいかないなあと感じましたよ
しかし、反骨精神は親譲り、理不尽との闘い真っ最中の娘のこと、!?くらいは 感じたでしょうよ(笑)

さて、前々回から考えてきましたがいよいよ明仁皇太子時代から天皇時代を思い返したいのですが、かなり個人的な感情に左右されるかもしれません。

慰霊の旅は平成時代の特許のようになってますが、違うことを前回は書いたつもりです。
昭和天皇は慰霊の旅とはおっしゃいませんでしたが、心情の奥底はそうであったろうと思えます。日常の祭祀は慰霊であり、全国巡幸は国民生活の現状を確かめ慰安することでもあったと思えます。
石を投げつけられていくという覚悟は、昭和天皇のご覚悟を明仁皇太子が代弁したのだと私には思えます。

明仁皇太子(ご結婚後)、天皇時代あわせて189回、57か国の海外訪問をされているのでさすがに全部は書けません。付録として載せますので・・・

私が注目したのは、アメリカ、沖縄、中国、です。

アメリカ訪問は浩宮様のご出産のご褒美旅行、と言われています。昭和天皇の名代ですが、一説には昭和天皇が美智子さんを浩宮様から離すためとも・・・ まあ、生後7か月の子供を置いての訪問で、デイズニーランドの様子は観光ですね。これは将来の天皇への懐柔作戦だったかも・・・

昭和天皇がなしえなかった沖縄訪問、見捨てられたという思いの強い沖縄の方たちは、明仁皇太子の来沖まで軟化することはなかったという。

このころの皇太子は天皇の意思を理解し、沖縄と真摯に向き合い慰霊に努めたと思う。一部過激派による火炎瓶事件が、沖縄の方々にも衝撃を与え、すぐに出された皇太子のメッセージは、立派に天皇の意思を伝えたものだったと思う。


日テレ

実は、私はこの火炎瓶事件はやらせだったのではないかと疑っている。
昔、アサヒのグラフ?かなんかで見た写真の中に、美智子妃と過激派の目が合っている写真があったのと、近距離でありながら火炎瓶を投げつけた方向が違うからだ。やらせ疑惑は私ばかりではなかったと思う。

なぜ? 美智子妃が昭和天皇皇后に、あなた方のおかげで命の危険に晒されながらも頑張っていると自分を認めさせるためです。そうして昭和天皇の発言を抑えるのが狙いだったのではと思います。

長くなり中国まで行けそうにありません。
かわりに、明仁皇太子が15歳ころに話していた面白い資料を・・・

天皇職業性や皇居を公園にし自分は宮外に住むなどの発言こういう考えが基盤にあって、美智子さんと結婚したらどうなるか、推して知るべし。
昭和天皇へのコンプレックスや祭祀、天皇の務めへの理解不足、単なる享楽主義者に思えますよ。

今日はここまで

        今日も読んでいただき有難うございます。❤️

  付録

https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/gaikoku/gaikoku-s.html

https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/gaikoku/gaikoku-h01-10.html

https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/gaikoku/gaikoku-h11-20.html

https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/gaikoku/gaikoku-h21-30.html


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