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為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり

ビジネス界隈では尊敬する人として比較的よく名前が上がる上杉鷹山。

あのケネディ大統領が尊敬する日本人としてその名をあげたことも有名です。

ちなみに上杉鷹山は隠居後の名前で、元は上杉治憲という。

上杉治憲は、江戸時代に17歳にして小さな藩からいきなり名家上杉家がおさめる米沢藩の藩主になりました。

その頃米沢藩は財政破綻の瀬戸際にありました。

古くからの慣習で上杉家の力を周りに示すための派手な儀式を行い、重鎮達が藩民から搾取しているという状況でした。
そのせいで藩民も逃亡する人が後を絶ちません。

もう藩を潰して、土地を幕府に返すかどうかという時に、上杉治憲は改革を実行した男でした。

この上杉治憲を題材にした小説に童門 冬二さんの「上杉鷹山 上」「上杉鷹山 下」があります。
https://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8F%E8%AA%AC-%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%B7%B9%E5%B1%B1%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%AB%A5%E9%96%80-%E5%86%AC%E4%BA%8C/dp/4313750010

この小説がどれくらい実話に基づいているかは分かりませんが、この本を読
んで、上杉鷹山から私が得た学びを記録します。

常に冷静

上杉治憲は常に冷静に判断していました。
感情に任せた行動は絶対に取らないず、常に「そんなことをしては何も変わらない」と自分に言い聞かせて行動している印象があります。

紀伊という女中がみすずという娘を自分の元で雇いたいということを治憲は一度は許可したが、のちにそれを取り消しました。
一度は情で判断して、許可したが、改革に例外は出してはいけないと冷静に判断し、冷徹だと思われるが、約束を後から取り消しました。

心優しい御屋形様(上杉家では藩主をそう呼んだ)である反面、こういった感情を取り除いた冷徹な判断もできるリーダーです。

側近には自分に意見する者を採用した

治憲は側近に佐藤文四郎という男をおきました。

この男は無骨で不器用な男だが、とても正義感が強く、間違っているとおも思えば、例え御屋形様であろうとずけずけと意見をぶつけます。

治憲はこういう人間だからこそ、自分のそばにおいたと思います。

常識にとらわれない

この時代の特に上杉家は"しきたり"が全ての世界でした。
形式をどこまでも重んじた世界です。

だから藩の重臣は藩民から年貢を搾取しまくり、派手な生活を送っていました。そして藩民はどんどん疲弊していきます。

そして重心は上杉家の力を示すためにド派手に儀式なども行います。
とにかくこういった形式が大事だったのです。

上杉治憲はこういった当時の常識を根底からひっくりかえしました。
藩の政(まつりごと:政治のこと)は藩民のためにあるのだといって、藩の重心達には質素は生活を送るようにし、今までの無駄な儀式もいっさいやめるように改革を進めていきました。

当時であればこれはとんでもないことだったはずです。
その時代にはそれが常識だと思われていたことを全て否定したわけなので。

それをやり遂げたのが上杉治憲です。

長期的な視点で考えていた

改革自体も長期的な計画をして、改革の火種を少しずつ広げていくよう、時間をかけて進めていきました。

また、例えば当時は美味しい話である田沼意次の賄賂もやらないと判断しました。

そして政の方針としても「時間がかかったとしても清き道を選ぶ」という判断をしています。

まずは自分が動いた

上杉治憲が進めた改革はプライドが高い上杉家の人々にとって屈辱的な内容でした。

今までの自分達の権力を示す儀式も禁止され、服装も質素なものになり、食事も質素になり、年貢も今までのように不法に搾取することもできなくなり、不満の嵐でした。

しかしその中で治憲は誰よりも先に藩主である自分が、質素な暮らしを率先して行い、まさに背中で部下に語り、改革を進めました。

質素な暮らしの他にも、米沢藩に特産品を作るために、木を植えたりということも自ら働きおこなりました。

自責的な思考だった

改革を進める中でうまくいかないことも当然あります。
そもそもよその藩からやってきた、17歳の若造にはあまりにも荷が重く、不可能とも言える改革だったのです。

しかし、治憲は常に誠実さと正義感を貫いた思考と判断をし、行動をしました。その結果が失敗してしまっても、決して誰かのせいにすることなく、自分の責任だと受け止めました。

治憲は自分の学問師匠から教えられた「過ちては改むるに憚ることなかれ」問い言葉を大事にしていました。意味は、間違えたと思ったらそれを改めることに躊躇うなということです。

自分の弱さをさらけ出した

若い上杉治憲は経験も少なく、自分一人では改革を進めることが難しいことを知っていました。
そのため、自分を変に取り繕い、周りに協力させるのではなく、あえて自分の弱さをさらけ出し、自分はなんも力がないからみんなの協力が必要だと訴えました。

自分が何もできない人間だということを藩の末端の人間まで曝け出しました。

この上杉治憲のまっすぐな心に協力しようという人間が次第に増えていきました。

人を大切にした

上杉治憲は改革で一番肝となるのは"人"だと最初から考えていました。
何かを変えるにはまず人が変わらなければいけないと。

そのため治憲は人を大切にし、自分自身も常に誠実にいきました。

騙されても騙すなという考えや、忍びざるの心(つい人に手を差し出してしまう心)を大切にしていました。

そして妻の幸姫を愛していました。

まとめ

上杉治憲はその人柄も実際に成し遂げたことも本当に素晴らしいです。
とても学びになります。

今でも尊敬する人が多い理由がわかります。

現代の米沢の名産として有名になっているものはほぼ全て上杉治憲の時代に作られたものだと言われています。

上杉治憲の努力は現代にも影響を及ぼしています。

気になったからはぜひ小説を呼んでみてください。

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