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newjeans

今、話題の渦中にいる少女達とそのプロデューサーだが、騒動の一連の流れを見ていて真偽はともかく何か言葉を綴りたくなり今この文章を書いている。 少女達の鮮烈なデビューは今でも思い出せる。夏の真っ只中、attentionを聴いた私の心は震え上がった。 正に、韓国版ヴァージン・スーサイズ。いち早く、日本で言うところの平成初期のティーン達の文化に目をつけたものの一つであっただろう。ひとつのアイドルとしてのミュージックビデオではなく、角度は違うが映画を見たような追体験だった。ここまで完

    • ひたむきな美しさは儚さと危うさの間にある。

      「少女とは何か?正義でもない。不変でもない。宗派でもない。民主主義でもない。民族でもない。美である。それは人間であり、それは歴史であり、それは象徴であり、それは時間であり、それは生命であり、美であるからゆえに当然として、超然として、愕然として、公然として、必然として、むしろ偶然的に、不滅なのだ。」 コミックLOより抜粋 少女。それは儚く、健康的な美しさを持ちながらもそれでいて期限が決まっていて、危うさも秘めているようなそんな思い出の中の存在だ。ここでいう期限というのはあくま

      • アイドルと偶像崇拝

        アイドル。それは皆の憧れであり、目標であり、恋を抱くようなそんな擬似的体験。夢を商売にする特殊な職業だ。アイドルというのは、まさに日本の固有文化なのではないかと思う。期限が決まっているからこそ、儚さと美しさの一瞬を応援する。それがアイドルとオタクなのだ。 アイドルというのは不思議で、人によっては希望にもなるし、人によってアイドルに求める形が違う。ここで勘違いしてはいけないのは、アイドルであるから好きなのであり、アイドルから1歩抜け出すと、また好きの形が変わるということだ。彼

        • 好きな色と女の子

          ピンクが好き。かわいいから。 ピンクが好き。女の子の象徴だから。 ピンクが好き。似合う自分が好きになれるから。 ピンクが好き。何にも負けない自分でいられるから。 ピンクが好き。変な色になってもぐちゃぐちゃになっても他の色と混ざりあっても何があっても、かわいいから。そこが、女の子みたいで好き。 さながら、知世ちゃんが作ってくれたコスチュームを着るさくらちゃんのような、そんな最強装備。 ピンクが好きな自分が好きで、ピンクを好きになれない自分が嫌い。周りが大人になるから追いつきたく

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          世界の中心で愛を叫んだけもの

          2020年。シンエヴァンゲリオンの本予告が出たときの、困惑と興奮が入り交じったなんとも言えない気持ちを今でも鮮明に思い出す。 宇多田ヒカルの素晴らしい音楽に、主人公シンジが覚悟を決めコックピットに乗っている様を見て、本当に終わるのか…そう思ったのだ。 エヴァンゲリオンには本当に強い思い入れがある。 コンテンツそのものに触れたのは年代的にも親の影響だった。 ちょっと人から見れば変わってる家だったので、父親がserial experiments lainがを所持していたり、母親

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          好き?好き?大好き?

          Do You Love Me? という原文でよく知られるR.D.レインの代表作、好き?好き?大好き?はそれはそれは自分の心に影響をとてつもなく与えた本のひとつだ。 私もその1人であるが、新世紀エヴァンゲリオンの「終わる世界」の副題として使用されていたことで知った方がきっと多いのではないだろうか。 この作品が与えた影響というのはすさまじく、KKベストセラーズから発売された美少女ゲームのタイトルにも引用されているし、戸川純の有名曲にも引用されたりしている。私の敬愛しているlain

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          弱者性

          学校の教室で、どこか馴染めなかった。話す友達も話しかけてくれる友達もいたし、陽キャも基本的には優しくて歩み寄ってくれた。環境的には恵まれていた。なのに、馴染めなかった。当時厳しかった部活の顧問に個性を潰されるようで息苦しかったが、そんな顧問を崇拝している同じ部活の仲間のことを本気で馬鹿にしていたし、笑っている人間は全員頭が悪そうに見えたし、好きなものに対してファッション感覚で喋る人間のことを軽蔑していた。こっちは本気でやっているのに… 頭のどこかでは気づいている。きっと頭が悪

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          インターネット

          インターネット、それは甘美なノアの箱舟だ。 インターネットとの付き合いは長い。物心ついた時には家にあったWindows XPに触り、好きなコンテンツに触れ、誰も知らない音楽を探したり、美少女ゲームをしたり、好きなゲームのレビューを残したり、当時見ていたアニメの片方のヒロインの悪口を書いたり、逆張りをし続けてマウントをとったり…馴染めない学校の鬱憤を晴らすように、甘美なように見せかけた汚臭のする幻想を楽しんでいたのだ。 結局、大人になった今も、インターネットという居場所から離れ

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          1999

          1999年というのは不思議で、なぜか特別感がある。ひとつ進むと2000年という新しい節目で、ひとつ戻るとなんでもないような中途半端な年になる。その絶妙な感覚が、きっと自分には特別だったのかもしれない。 1999産まれということに、なぜか誇りを持っている。 ひとつ理由をあげるとすれば1999年という年が様々なコンテンツに使われたり、音楽として消費されたり、映像として消費されたりしているからだろう。 1999年という年には世界の終わりが予言されていたノストラダムスの大予言があり、

          私とTwitterという沈みゆく泥船

          Twitterが終わりに近づいてると感じるのはきっと私だけではないのだろう。みんな、次の新天地を探してる。沈みゆく泥船を見ながら次の泥船を選んでいる。結局SNSはなんてものはどれも泥船で、泥船の中からいい船を選ぶしかないのだ。 そんな私も、次の新天地をどうしようと思いつつこの沈みゆく船に思いを馳せたりする。 思えば自分がTwitterを始めたのは2012~2014ぐらいの中学生の頃で、さすがにそのアカウントは残っていないけれど、2017年から使っているアカウントが私の無数のア

          私とTwitterという沈みゆく泥船