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私の詩のスタイル

1 Instagram

現在25篇目を作成中です。noteには15篇まとめたもの、インスタには毎週1篇ずつ出しています。インスタの方は3月いっぱいで15篇を出し切り、4月の第一週からは第一詩集の画像など別のものを投稿しようと思います。
Twitter,Xなど文章系のものだと自分の考え、自分の気持ち、感じたことなどを書くと(自分では人に不快な思いをさせるようなことを書いたつもりはないが)たまに喧嘩のようになることがあります。それを避けるためにインスタを選びました。noteでも同じようなことがあったけど、さすがにこれ以上アカウントを削除するわけにいかないので残しています。ずっと続くかどうか分かりませんが、インスタをとりあえずしばらくやってみます。

2 昔と今の傾向の比較

詩を作りはじめた初期の頃は簡単な言葉でピュアで前向きな初心者のようなやさしいショ-トポエムだったのが歳を取るにつれ変化し、50代になってから現在のようなスタイルになりました。

~変化したところ~

・作品数

20代までほとんど作ったことがなかったが、賞に応募したり出版社に原稿を持ち込む頃になってから量が増える。しかしそれでもまだ作品数が少ないと言われたので更に増えた。第一詩集の頃には読者やフォロワーからは「すごい量」「まだ全部読んでないです」と言われる程になった。
例えば12ヶ月をテ-マにするとそれだけで12篇作れる。それでシリーズものをよく作るようになりました。
作成するスピードが遅くてまだそれだけしか書いてないのか、という感じでしたが、後年早く多く作成できるようになりました。

・言葉の難易度

簡単で単純な言葉だったのが、段々難しい言葉に変わりました。現代詩手帖、現代詩文庫、澁澤龍彦、埴谷雄高など様々な本を読んで、自分もそういう言葉が使えるようになりたい、そういう文章が書けるようになりたいと憧れるようになりました。といってもやはり難しい言葉や文章が書けるようになるまで期間がかかる。
しかし後にかえってその難しい言葉が裏目に出ているような気がしました。
もしかしたら昔の初期の作品の方が一般大衆性があり、人に受けたかもしれません。

・作風

ピュアで善良で健全で前向きなものを書いていたが、ゴシックや厨二病的な言葉を読み、退廃的で毒のあるネガティブなものに変わりました。少女時代から好んでいたROCK音楽と詩は、それまで全くの別物だったのがこの時初めて繋がりました。

・長さ

短いショ-トポエムを書いていました。長いものは難しいので短歌や五行歌をやっていたこともありました。しかし後に五行歌や一行詩など短いフレ-ズを一つの詩になるように繋げて作ったら、長いものもできるのではないかと思いつきました。
例えば
春(5行)+夏(5行)+秋(5行)+冬(5行)=四季(20行)

と同時にリフレイン、反復というか、セットになるような似たような言葉を繰り返すやり方も思いつきました。
例えば朱霊、朱紅、朱夏など。
短いものの方が作るのが簡単なので、もっと歯ごたえのあること、難しいことがやりたくなったのと、審査員から「断片的」と言われたことがあったので長さがあった方がいいかなと思いました。

以上のことは長い年月をかけて徐々に変わっていったり、出来るようになったことです。最初は何度やっても出来ないという状態が長いこと続きました。だから現在出来ないでいる、日常的具体的な詩というのも作れる日がいつか来るんだろうか、と思うこともあります。

~変化しなかったところ~

・恋愛詩が少ない又は無い

詩に限らず恋愛が苦手。自分の恋愛感情を人前に表わすのが恥ずかしくてダメ。そもそも恋愛と無関係な方が扱いやすい。

・身近ではない

既に30代の時に審査員から指摘されており、それ以来ずっと気に留めてはいたが、難しくて今でも苦労している。
詩以外の生活、仕事面などでも「気が利かない」と言われたり、細かいことにまで気がまわらなかったりする。そもそも詩とは全く関係のないこと(仕事、家庭、外出先)でも、ちょっと気がゆるむと自分の内面とか遠い世界、空想の方にいってしまうので身近な人や目の前の現実に行き届かず、「気が利かない」とか○○が間違っていた、‪✕‬‪✕‬を忘れた、△△が抜けていたと指摘されたり、失敗することがあります。私の場合はそうしたクレ-ムやミスを防ぐ為に身近な人や目の前の現実に注意を払うという生活を送っていました。
その点「赤毛のアン」の主人公アン・シャ-リ-は非常に共感を感じる登場人物でした。
大局観、鳥の目というか人間全般、世界全体を俯瞰する方が私には良かった。

・非現実的

詩以外の他のことでも、性格自体が神秘的で幻想的でした。だからシュルレアリスムや幻想詩をやろうと思ったけど、この種の詩はそもそも応募していないような印象を受けました。現代詩、自由詩に何度応募しても落選がほとんどで、受賞した人、選ばれた人の作品を読んでも自分と違う感じがする。落選の原因はもしかしたらそこではなく別のことかもしれないし、よく分かりませんが私が気になった点が一つはコレでした。

3 身近な現実と日常

これまでの経験で印象に残っていることの一つが、公募の批評で「身近なことについて書いて欲しかったです」という言葉です。それから後もこの詩は日常の些細なことを書いているみたいな批評の言葉を目にしたことがあります。
身近で生活に根ざした些細なものが評価され、自分のようなタイプは評価されないような感じがしました。けど、そういう詩を作ろうとしても私には難しくて、書けませんでした。何より好きじゃないし、苦手だし興味も薄い。そういうものはむしろ詩というより日記や小説やエッセイみたいだと思うこともあります。
幻想的抽象的なものの方が自分に合うし、作りやすく筆がはかどります。だから数百篇も書けたのだと思います。
人それぞれみんな性格も個性も考え方も価値観も違う。だからできれば色んなタイプの詩を評価して欲しいと思ったりします。
昨年の公募でも実はそういう傾向を予測していたけど、難しくてそういう風に書けないままこれで精一杯、でも自分の作品を専門家に見てもらいたいと思って出しました。
身近なことというのは例えば父母への情とか野の花とかささやかで素朴な感じという意味なのかよく分かりませんが、そこに気をつけて作った作品もあります。それでも具体的で現実的な感じにはあまりならず、これが精一杯でした。

野に咲く/一輪のスミレの花は/深く 静かで/宇宙の心を/持っている

手のひらから/こぼれおちる/小さな幸せを/ささやかな日常の中で/受けとめられたらいいね

今日と明日の間には/これからはじまる白い物語がある/クリーム色の一ページに/綴られた想いは/どんな色彩に染まるのだろう

夢猫の風景 神崎梨花 ∞ブックス

後にオンデマンド出版を知り、これなら賞が獲れなくても金がなくても出版できそうだということで、本来の自分の好きで得意なスタイルで書きたいことを書くようになりました。
昨年残念な結果が出て、再びこの問題が気になり出しました。それで現代詩ではなくもう少し別のものを選んだ方がいいのか、とも思いました。

詩は自分のために書くもの、という言葉もTwitterの時に見かけたことがあります。思えばありがたい言葉です。その時は私への反論のように思えてついリムったりしたけど、私の方が馬鹿だったと今では反省しています。
反面、現在これだけのものが書けるようになったのも審査員の言葉や新しいジャンルとの出会いなどそれまで自分に無かったものによって変化できたところもあります。
最後に、そういったことについて書かれた理論を見つけたので引用します。

4 本からの引用

この現実認識は詩とは直接の関係はないものといいきっていいだろう。最近どこかで大岡信がぼくらの詩について、「現実認識が詩的行為であり、詩的行為がそのまま現実認識である世代の誕生」というようなことを書いていたが、もし彼が本気ならこれはぼくらの現実認識の買いかぶりか、でなければぼくらの詩的行為への認識不足であるように思われる。
詩的行為が現実認識と重なりあうことは、部分的にという条件づきでさえ認めることができない。
「詩人はおほむね現実に暗く文明に遅れた根性まがり」(石川淳)といった常識的な嘲罵がつねに一面の真理をあらわしている通り、いや「おほむね」どころではなく、詩人はまさしく現実認識の面でヨワイといわねばならないのであって、それを超越するどころか、そこに「居すわる」ことさえもぼくらの力の及ぶところではないのだ。
この「弱味」は実はぼくらの弱点ではなくて、これこそぼくらの強味、不可能性そのものを可能性の唯一の根拠となしうるぼくらの力を支えているのである。
かくて詩が認識するのは現実ではなく当然非現実であり、その非現実認識、というよりその認識が本来的に含んでいるとバタイユのいう創造作用によって、現実に対し「現実認識」とは全くずらされた角度から、攻撃的に、全体的に関わりあうのである。
岩田宏は片桐ユズルの著書を批評しながら「詩を日常にできるだけ接近させ、山のあなたに追放されていた詩の名誉回復をはかるという、というのが片桐ユズルの主張で、こういう傾向は現在のわたしたちの詩の状況にあっては、いくら強調してもしすぎるということはないだろう」と書いているが、この日常との接近という現象は、詩の本質に根ざした現代詩の趨勢といっていい。しかしながら、正確にいえば、詩は日常に「接近」することはありえない。そうではなくて詩は日常に近づきそれに触れあうより早く、その日常を通り越してしまう。詩が日常をとらえるのは、その非日常性、もしくは日常性的本質においてほかならない。


現代詩文庫11 天沢退二郎詩集

すべて主観的なるものは詩であって、客観的なるものは詩ではないのだ。詩人は哲学を持たねばならぬ。
日本人の著しい特色は、極めてレアリスチックな国民であるということである。天気晴朗、鳥の空にさえずる日に何ぞ明日のことを悩まんやという、極めて楽天的な現実思想は古来から日本人に一貫している。故に日本人は宗教的な気風や哲学的な気風や哲学的な瞑想を全く持たない。日本のあらゆる文化は、昔から徹底的な現実主義レアリスムである。例えば詩を見てもこの点が西洋と著しくちがっている。西洋の詩は一般に観念的、瞑想的であるけれども日本の詩は極めて現実的で日常生活の別離や愛慕に関している。特に俳句の如きはレアリスチックの詩であって、ほとんど自然の風物描写と日常茶飯事の詠吟を以て事としている。
西洋の文明は芸術と宗教と哲学と科学との文明である。然るに日本には哲学も科学も宗教もなく、ただ一つの芸術のみが発達している。なぜなら哲学や科学は宗教の懐疑であり、一方に反動さるべき主体がなければ、それに懐疑を起りはしない。第一そうした懐疑をもつには日本人はあまりに楽天的現実家でありすぎる。故に日本には昔から少しも抽象的観念が発達しない。即ち神道の所謂いわゆる「言論せぬ国風」で、一切思想というものが成育しない。実に驚くべきことは古代の純粋の日本語には、一つも抽象観念を現わす言語が無かったという事実である。(支那の言語が輸入されて、初めて「忠」や「孝」が考えられた。)
日本人は本来主観性のない国民、客観性にのみ発育した人種であるから、すべて西洋から移植された文芸思潮は、日本に来て特別のものに変わってしまう。
抽象観念のない日本人に真の浪漫主義が理解される筈がない。
詩人とはイデアリストで、生活の幻想を追い、不断に夢を持つところの人間夢想家ヒューマンドリ-マ-、常に感じ易く情熱的なる人間浪漫家ヒューマンロマンチストを指すのである。
日常生活の無意味な身辺記録などを書き、それで「生活がある」などと考える間はいつまでたっても日本の文学は駄目であり、西洋のような真の自然主義や人生文学は生まれて来ない。
詩には祈祷があって生活描写がなく、小説には生活描写があって祈祷がない。
詩の世界は「観念界」「空想界」に属すとされ、小説の世界は「現象界」「経験界」に属すとされる。
宗教観や倫理観は本来エゴイズム、自我意識の強調されたものなる故、日本人にはこの種の情操が本性していない。日本人はすべて超宗教的、超道徳的である。したがって日本人はこれに対する反動の懐疑思想も持っていない。
日本人こそ徹底的なる、気質的のレアリストであるだろう。西洋人は本来現実主義の国民ではない。
日本の詩は無韻素朴な自由詩、西洋の詩は荘重典雅な形式の叙事詩に始まっている。日本では古来からあらゆる文化が素朴自由な形式で、西洋文化のような貴族的、ゴシック風に荘重典雅なものは一つも日本に発育していない。



詩の原理 萩原朔太郎 青空文庫



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