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【ひとりごと】嫌な記憶を供養する。

※侍リリィあるある、長文連ツイをnote用に加筆したものです。あっちこっち書いてます。

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仕事で散々他人軸に寄せて、しわ寄せ食らっていたんだった。休職中は自分軸を取り戻す。主体性の復元というか、合ったものを思い出す。 仕事は業務をこなすために心身を削るなんて、仕事から考えても非効率的すぎる。「仕事だから(自分を殺されても仕方ない)」のでは、あまりにお粗末だ。

まあいいか、を分解する。

主体性を取り戻すために、自分で選んで決定することをもう一度意識してみる。時間の使い方、一日の行動、何を調べてどうしたいか。何もなくても選択の機会はあるんじゃないか。 あとは「まあいいか」の別解釈。これは受け流すといわれるけど、私が現状納得できる解釈は「そうなんだ、そんなもんか」と言葉を変えることと、【あえて深く考えることを止める】ことが近いと思った。だいたい、なぜそうなるのかと思考を巡らせることが殆どなので、考えを一度「そうなんだ」で小休止させる→考えを減速し最後は止めることで、1手間加えて止めることができるんじゃないかと思う。

だいたい「まあいいか」は考えの放棄になってしまう気がして、私の中ですごい嫌だなって思ってしまう。原因追及の破棄って、どうしても機会を逃してしまうのでは? ともったいない気がして。 でも、考えることをやめるのは決して悪いことではなく、むしろ「今この問題を解決するリソースがないので未来に託す」ことにしたら、気持ち楽になるような気がした。現状そういう機会はまだ少ないけど、「まあいいか」より気持ち楽になれる可能性は高いと思う(個人の価値観)。普通そこまで考えないんですがね… 理解が難しいからこう、イメージで解釈するので…

まあいいか、に苦い思い出がある。

そもそも「まあいいか」に何の恨みがあるというのか。こんなにこの一言を苦手とするのは何なのか。 たぶん、家族から「そんなもの受け流しなさい」と言われて、助けてくれなかったから? 受け流すコマンドが自分で押せない、この辛さ。そもそもコマンドが無いというか、理解できていない。

いじわるされた、悪口言われた、被害を受けたのに逃げなかった(逃げられなかった)。自分を守れなかったお前が悪いといわれたような気がして、とても悲しかったんだ。昭和から続く平成っ子の悪癖ですよ、こんなもの。 受け流すとは危機を遠ざける、身を守るため逃げるに近い。

逃げるコマンドがなくて耐えるか、守るために加害者に近づき、寄り添うくらいしかなかった自分が、まるで愚かみたいじゃないか。例え無くても、それしかなかったと自分の選んだこと。この行為に意味づけをしてきたけど、結局「逃げる」が育っていないうえに、意味づけしすぎて「耐える」「(間違った)寄り添う」に固執する問題がある。

記憶を手放す、別れを告げる

じゃあ今の自分はどうですかってことですね。過去を振り返って慰め、肯定してきた。それなら一度さよならをいうのもアリではないか。記憶の決別というより、記憶の供養がやさしい別れ方な気がする。ある意味で執着を供養する。

きっと、悲しいときや体調がすぐれないときに、過去の辛さは浮かんでくるだろう。自責の念、後悔、たらればの繰り返し。いつまでも変わらない、生産性のない時間だとわかっているのにやってしまうもの悲しさ。

これはもう”現象”なのだ。ひとつの現象、わたしが生み出したというより、脳が生み出す”繰り返し”。悲しいときほど浮かぶ泡沫。あるようで見えない、つかめないこの現象を、供養するにはどうしたらいいか。ちょっと考えてみよう。


  1. 暖かくして空腹を避け、寝る。これを何年も繰り返して忘れる

  2. 大掛かりなセレモニーを行う。例えばたくさん紙に書きだして燃やす等。

  3. 今がどう幸せになったか変わったか記録を取る

  4. 祈る


暖かくして空腹を避け、寝る。これを何年も繰り返して忘れる。

場当たり的な対応かもしれないけど、これが私の中で一番大きかった。とにかくその場で悲しい記憶が浮かんで来たら、暖かい食べ物を食べて、風呂に入って、寝る。それか、面白いものを見て笑う

悲しい記憶は確かに自分だった、過去が今を妬んでいるのではないかと不安にもなる。悲しみに暮れるインナーチャイルドと対話するという方法もある。けれど、今悲しいのは私だ。悲しくて辛くて存在が矮小になる。命を絶ちたくなるくらい辛いのなら、逆に対応する冷静さは既に自分の中にあるのではないか? 鬱陶しいほど繰り返してきたことに、ほとほと飽きてしまったんじゃないか? こう考えられれば儲けもんで、じゃあやってみるかと身体が動ければ、もう勝ったも同然である。

私の場合はすぐ夕食にする、糖分とアミノ酸が含まれたものを食べる。とにかく、何か暖かくてエネルギーになるものを口にする。手っ取り早いのは、甘いホットミルクやコーンクリームスープなど粉末スープを用意する。酒やカフェイン系はNG。おおかた空腹なので胃を荒らしてしまうから。これを繰り返して、時間が解決するまで待つ。そうして自分を保たせる。

※嫌なことを思い出してしまうのは、月経前のPMSや月経中の月経困難症の場合があるので、気になる場合はすぐ産婦人科へ。

大掛かりなセレモニーを行う

断服式に近いかもしれない。ものと同じように、記憶も供養する。
セレモニーというわけではないが、私は過去に起きた記憶をエッセイ風にして、コピー本にしたことがある。これはこれでいい供養になったけど、過去の記憶が頭に定着したので、こういう生き方しかできないと固執してしまった時があった。そのコピー本を供養として燃やせばよかったのかもしれない(記録として取っておく価値はあると思うが)。

方法は自由。とにかく嫌な記憶を自分の中に留めさせないようにするのがいいかもしれない。紙に書きだして封筒に入れ、塩を振って捨てる。書いたものを燃やすとか。内容がおまじないじみたものになりがちだけど、儀式として自分の中で決別できるならそれに勝るものはない。

今がどう幸せになったか変わったか記録を取る。

現在の肯定、変化の確認を行う。嫌なことがあったのは10代・20代…と若いころなら尚更、今どう変わったかを書き出す。5年10年で変わったことはたくさんあるんじゃないか? 年齢はもちろん、世の中、環境、仕事、配偶者、子ども… 私の変化は大したことないかもしれない、でも周りはこんなにも変わった。

そうした中で、わたしはなにができたのか、何を成したのかを考えてみる。できなくなったこと、いまだにできないことは絶対考えない。じゃあ10代、学生時代じゃできなかったこと、例えば収入を得られるようになった、働いたおかげで自分に使えるお金が増えた。車が買えていつでも好きなところに行けるようになった。パソコンやスマホを所持していろんなことを調べられるようになった、結婚して家庭ができた… 

私の場合は、収入を得られるようになった、実家を出た、曲がりなりにも自立した。これは過去のわたしが決断したことなので、今でも感謝している。

祈る

1の暖かいものを食べて寝るときに、どうしても尾を引いてしまうとか、記憶が浮かんでしまうときにやるのがいいかも。祈るというよりも、こんなに頑張ってきたじゃん、大丈夫、なんとかなる…とか、自分に言い聞かせるほうが強いかもしれない。
でも「どうかこの苦しみが報われますように」と、見えない何かに願うのは、誰にでもできる一番身近で簡単な供養ではないかと思う。


苦し紛れのまとめ

自分の主体性を取り戻すための行いとして、ひとつ「まあいいか」と手放すことを上げた。しかし私は「まあいいか」を理解出来ず、出来ないことに苦しんでいた。なので、解釈を変えてみた。「そうなんだ」小休止し、考えを減速、最後は止める。そして今この問題を解決するリソースがないので未来に託す」こととした。一種「まあいいか」とは受け流す、つまり危機を遠ざける、身を守るため逃げる行為に近い。
では、思い出しては悲しくなる現象は、どう対応したらいいのか? 1.暖かくして空腹を避け、寝る。これを何年も繰り返して忘れる。2.大掛かりなセレモニーを行う。例えばたくさん紙に書きだして燃やす等。3.今がどう幸せになったか変わったか記録を取る。4.祈る。以上4点を挙げた。実際に行うのはこれからである。


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