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アントン・ラエウスキー(3)

2016年3月4日 ラジオリバティー:(5,193 文字)

今とは異なる見解を持ち、この疑似餌を信じていた2014年に戻りましょう。どうやってドンバスの領土に行ったのですか?

多くの志願兵と同じように、まずロストフ・オン・ドンのキャンプで訓練を受け、武器を渡されたのですか?それとも他の方法があったのですか?

ロストフ・オン・ドン(ロストフ・ナ・ドヌ):ロシア軍南部軍管区の本拠地

2014年、オデーサでの3月の出来事の後、私はサンクトペテルブルクに戻り、≪Невская дружина≫ という地域組織を作り、VKontakteにこのグループを登録し、サンクトペテルブルクのすべての親ウクライナ住民とSNSへの全投稿の監視、SBUスパイの特定、ウクライナとの戦いという共通の目的のために資本を投資しました

オデーサでの闘争:マイダン革命の結果を受けて、オデーサでは5月まで親欧派と親露派の間で衝突が続いていた

それで、ロシア全軍連合の目に留まって、そのリーダーの一人と会い、ウクライナの南東部、スラビャンスクの戦闘部隊に参加しないかと誘われた
つまり、ウクライナ南東部での戦闘作戦に参加することを提案されたんだ

ロシア全軍連合:亡命したロシア軍人が1924年に創設した、「ロシア帝国」をイデオロギーとして掲げる、超国家的なロシア軍人会。ただし、参加者は軍人に限らず、国籍も関係無い。VKのアカウントを見る限り、今も活動しているようだ。

私はその申し出に承諾し、ロシア全軍連合の一団と共に、サンクトペテルブルグからロストフ・オン・ドンに向かい、そこに一週間滞在しました
そこでは、さらに何人かが合流し、部隊の準備ができたときは10人ほどになっていました
私たちは全員、国境を不法に通過しました
チェックポイントはなく、UAZのローフで国境を越えました

UAZのローフ:

クラスノドン市の入り口で出迎えられ、基地に案内され、そこでさらに数日滞在しました
クラスノドン駐屯地にいる間に、彼らの武装組織に参加することを提案されましたが、先にストレルコフ(ガーキン)と約束していたので、断りました
既に、ストレルコフ(ガーキン)がスラビャンスクで私たちを待っていたからね

6月23日、スラビャンスクにつきました
そこで、ストレルコフ(ガーキン)と一人の軍人が出迎えてくれました

ストレルコフ・ガーキンとは、以前から知り合いだったのですか?

私は彼と面識も無く、それまで聞いたこともありませんでした

多くの義勇兵たちと同じように、ファンだったのでは?

私は違いました
また、ロシア全軍連合のファンでもありませんでした
私は歴史好きですが、ロシア全軍連合をよく知りませんでした
そうして、アレクセイ・ミルチャコフのグループ、ルシッチと一緒に行くことになりました
アレクセイ・ミルチャコフは、彼らの組織に入り、一緒にLNRに行かないかと誘ってくれました

ルシッチ:アレクセイ・ミルチャコフが2009年に創設したロシア・ネオナチの傭兵部隊。

アレクセイ・ミルチャコフ:ロシアの傭兵。精神障害を持つ特に危険なロシアのテロリストの殺人者。ウクライナ人の大量虐殺に関与した戦争犯罪者として指名手配されている。

ルシッチに参加するためには準備時間が足りず、仕方なくロシア全軍連合と一緒に行きました
彼らと一緒に行っていたら、違った話になっていたかもしれませんね

ウランゲル男爵が設立したロシア全軍連合という組織は、思想的な人たちだけの組織でしたか?それとも生活のために戦いに行った人たちもいたのでしょうか?

ロシア全軍連合の部隊は、この思想に傾倒した人々で構成されていましたが、小さな部隊でした
一緒に旅をしたのは10人ほどのグループで、これはロシア人達全体のなかでも非常に少なかった
10人なんて大したことないんです
しかも、約10人で、実際は10人より少なかった

戦場に行ったのはこのロシア全軍連合グループだけだったのでしょうか、それとも多くのグループの中のひとつだったのでしょうか?

2014年では唯一のグループです
私の知る限り、今(注:2016)はドンバスにはロシア全軍連合の砲兵将校が一人います
ロシア全軍連合の他のメンバーも現地で戦闘に参加しているかもしれません
個人的に知っているのは、連絡を取り合っている1人だけです

機材は自費で購入しました
ただ、ロストフ・オン・ドンで露革命軍事評議会のイワノフ議長が、特殊なゴーグルと手袋を買ってきてくれたのは助かりました
総じて、すべて自費で、援助は一切受けなかった
ただ、「スラビャンスク防衛のために」というメダルをいただいたことは感謝しています

スラビャンスクでは1円も払ってないってこと?

当時は軍隊組織も無かったので、現金の支給はありませんでした
100ドルか200ドル程度の支払いしかなく、それは何か戦果をあげた人たちの一部に与えられました
まだドネツクにいたころ、ストレルコフ(ガーキン)から支払われましたが、全員がこの支払いを受けたわけではありません
でも、そうじゃなくて、みんな思想のために、殺すために、死にに行ったんだ

武器はどこで手に入れたのですか?
スラビャンスクのウクライナ軍から略奪した倉庫からですか、それとも前からあったものですか?

正直なところ、スラビャンスクの倉庫にあった武器だけだったのか、今となっては疑わしい
武器はモスクワから、ロシアから、ストレルコフ・ガーキンに送られたことは間違いないだろう
おそらく、一部の武器や車両はアレクサンダー・ホダコフスキーのDPRボストーク大隊が横取りしたのだろうが、それでも、武器はロシアから来ていたと思う

アレクサンダー・ホダコフスキー:ドネツクの分離派政治指導者。DPRボストーク大隊司令官。298名が死亡した2014年7月17日のマレーシア航空機撃墜事件は、この部隊が実行したと考えられている。

例えば、ヘリを撃墜したのはMANPADSでしょう
ヘリコプターが機関銃で落とされたなどというのは、信じられません
だから、そこにはちゃんとした兵器があったはずです
しかも、ロシア軍事顧問団がいた
ニコライウ守備隊のコールサイン「マチェーテ」司令官(2016年時点ではルガンスク人民共和国第7旅団第3機動ライフル大隊司令官)がミコライフカで負傷したとき、彼の車にロシア軍幹部、いわゆるロシア軍顧問が乗っていました
これは事実です

そして、ミコライフカ、セメニフカ、スロビャンスクのいずれにも、そうしたロシア人顧問が複数いました
ロシア人顧問は、地上での直接の指揮官であり、組織全体の軍事的なタイミングを決めていました
指揮官は民兵ではなかった
軍事的な戦闘は、全体としてロシア軍事顧問団が監視し、コントロールし、命令していた
どうすれば民兵がウクライナ正規軍と戦えたというのか?
当然、ロシア軍の軍事機器や武器もあったはずだ
ミコライウカではサブマシンガンの数が少なく、全員が持っているわけでもなく、大砲の数も限られていた
それなのに、RPG-7、SPG-9、その他の対戦車兵器…
それらの武器はどこから来たというのか?

ロシア軍顧問団とは別に、ロシア正規軍の兵士がデバルツェフに配置されているのを見ましたか?それとも、すでに帰った後だったのでしょうか?

注:デバルツェフの戦いについてはリンク先を参照

私は「デバルツェフの大鍋」を目撃していないし、そのようなイベントにも参加していない
彼らを見たことは無い
しかし、私はLNR軍、人民民兵で中尉の階級で機動小銃の小隊長をしていたので、大隊から旅団までの中級、上級指揮官がすべてロシア人顧問だったと断言することはできる
そこにあった兵器はすべてロシア製だった
ウクライナ軍が残していった、いわゆる小火器、それはウクライナのものだった一例ですが、それ以外のもの、特にBMPやT-64戦車はすべてロシア製で、すべてロシア軍のモデルだった

ウクライナ側から識別されないように、識別番号を消しただけです
それがすべてロシア軍の機材であったことは明らかです
もちろん使い古され、殆ど使えないものだったが、ロシア軍の軍需品だった
ドンバスにロシア軍が限定的に駐留していることについては、正直言って、何も言えません
ロシア国防省だけでなく、露連邦保安局(FSB)を通じて来る教官もいました
特に、第3機動小銃大隊の偵察小隊には、FSBのフリーランサーが訓練をしに来ていたことは確かだ
露連邦保安庁(FSB)の要請で、私の大隊の偵察部隊を訓練しに来てくれた
最も興味深いのは、この教官は元GRU(ロシア軍対外諜報局)のメンバーで、その後民族主義的な活動に携わり、DPNI(注:不法移民排斥運動をしている政治団体)の地方支部の活動家であったことだ

その後、FSBが彼を採用し、現在はFSBに積極的に協力し、ドンバスに来て、いくつかの部隊を訓練していると言っていた
今だって、そうかもしれない
ロシア人スタッフのアドバイザー、インストラクター、ロシア軍事装備、全てがそこにある
具体的にロシア兵には、私は会ったことがない
しかし、ロストフ・オン・ドンには特殊な部隊が駐在していて、合図があればすぐホットスポットに移動できるようになっているだろう

イロヴァイスクとデバルツェフへと少なくとも二度の配置変えがありましたね
しかし、ガーキンとの会談に話を戻します

どのような印象を受けましたか?親しくなったり、友達になったりしましたか?

ガーキンさんは、スロビャンスクの本部で私たちを迎えてくれた
私たちは一列に並び、ロシア全軍連合のイワノフ議長がドンバスの民族解放戦争や「ノボロシア」、その関係するすべてのために来たたことを報告した
ガーキンさんは、私たち一人ひとりと握手をして感謝の言葉をくれました

これは民族解放戦争だ、我々は「ノボロシア」のために戦っている、キエフ政権やウクライナのバンデラ派、ファシストと戦っている、というような言葉がいくつかあった
そして、武器を渡され、車に乗せられミコライフカの前線に移送された
それが、私とガーキンとの出会いのすべてだ

バンデラ派:ウクライナ民族主義者や非親露派ウクライナ人に対するロシア人の呼称。

それ以来、彼とは会っていないのですか?

ええ、会ってません
正直なところ、ドンバスから帰って、なぜモスクワやサンクトペテルブルクにロシア全軍連合が私を招待しないのか、ガーキンが来たとき、彼との記者会見に私が呼ばれたことがないのか、不思議に思っている
ロシア全軍連合は、もうはっきり言おう、私を捨て駒として使ったのだと思う
もう私は必要ないのだ

特に、私が国家社会主義者としてメディアに取り上げられたことを思えば、ガーキンとの記者会見というのは、私の存在は、控えめに言っても見苦しい、醜いものだ
ガーキンと並んで輝いていたら、絵にならないからね
そのため、ロシア全軍連合の他のメンバーは出席していても、私はガーキンとの記者会見には全く招待されなかったのだ

最近、ガーキンの主宰で愛国者委員会「1月25日」が設立されました。この関連性については懐疑的な考えを持っていますか?

愛国者委員会「1月25日」:ドネツク・ルガンスクがロシアに再統一されることを目指す政治団体。

正直なところ、この委員会ができたとき、ガーキンには失望した
チェキスト(注:国家公安機関の工作員。「国家の手先」くらいの意味)のくせに、それまで、私にはドンバスの民族解放運動のふりをしていたのだ
国民ボルシェビキ党だったリモノフとの関係は、ふしだらなだけでなく、イデオロギーの観点からも問題だ

リモノフ・ヴェニアミノヴィッチ:2020年に死去している。マイダン革命を非難し、ウクライナを裏切者と呼んでいた。

国民ボルシェビキ党:極左と極右の思想を併せ持つというロシアの野党。2007年に禁止され活動停止。

ガーキンは以前、自分は一貫した君主論者、オーソドックスな正統派だと言っていたが、
いきなり左翼陣営の代表である国民ボルシェビキ、そして、社会民主党やその他の何とでも合体したのだ

ガーキンに対する考え方がガラッと変わった
正統派の君主主義者が、どうしてカラシニコフ・レッズ(左翼過激派)と団結できるのか、私には理解できない、あきれ果てる
だから、私の今日のガーキンに対する態度はネガティブなものです

彼は特定の主人に命令され、裏でゲームをしているのだ
昔は優秀な武将だったのに、政治家になってしまった
以前は「政治には関わらない」と言っていたのに、今は政治に手を出し、ボディーガードと行動を共にするようになったのだ

(つづく)

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