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この戦争は、どう始まったか -ミコラ・ドンチェンコ(1)

ウクライナメディア:

息子を守るために戦争に行ったが、結果的に、息子に命を救われた

負傷前のミコラ・ドンチェンコ二等軍曹は、TRO(領土防衛軍)第130大隊で戦った
ロシアがウクライナに本格的に侵攻する以前から、アフガニスタンに従軍していたため、戦闘経験がある
そのため、ロシア・ウクライナ戦争では「アフガン」というコールサインをもらっていた

ミコラ・ドンチェンコ

2010年に甲状腺を摘出する手術を受けたので、ドンバスの戦争に行くことはできませんでした
しかし、TROへの入隊を勧められ、ロシアの攻撃が始まる3カ月前に入隊しました
戦争が始まる危うさを感じたのです
なんとか、トレーニングにも通うことができました

2月24日は、あなたにとってどのような始まりだったのでしょうか?

朝5時、爆発音が聞こえました
私は仲間たちを全員を起こしました
彼らは私に慌てないようにと言いました
しかし、私は本格的な戦争が始まったと言いました
それでも、仲間たちは最初は信じませんでした

何故でしょう?

こんなことが起こっていいとは、誰も想像できなかったのでしょう
私も、そういうことがあり得るということは理解していましたが、なかなか信じられませんでした
私は上官に電話をかけたのですが、彼は応答しなかった
それで、部隊長に電話しました
いつどこに行けばいいか、何を持っていくのか、メールの指示を待つようにと言われました
それから、昼休みまで居ても立ってもいられませんでした
14時に指令メールがきて、それでソロミアンスキー州の(州庁舎にある)国民管理局に行きました

なぜ、キーウ領土防衛軍241旅団130大隊に入隊していたのですか?友人でもいたのでしょうか?

いいえ、ただ、そこに住んでいたからです
息子と一緒に入隊していました

Мешканці тихого мальовничого села Дементіївка Харківської області ніколи не думали, що опиняться на вістрі тяжких боїв з...

Posted by 130 Батальйон територіальної оборони on Friday, October 21, 2022

息子さんも一緒に同じ部隊で戦っているのですか?

そうです
一緒に任務に就いています
最初は、キーウ環状線で配置に就きました

ビロホロッカの働きで評価されました
(注:ブチャからの避難民の救出任務。詳細はファントム(2)を参照ください。)

部隊の一部はイルピン(キーウ北西部の解放)にも行きました
光栄なことに、私もイルピンに行きました
そして、仲間の一人がそこに家があり、そこに留まりたいというので、交代しました

どんな人たちがイルピンで参戦したのでしょうか?軍務経験のある人たちだったんでしょうか?

両方です
経験者も、未経験者もです
志願者が本当に多かったです!
モチベーションは非常に高かった

キーウ解放の後、私たちはハルキウの北サルティフカに送られました
少佐が率いる将校団から任務を引き継ぎました
彼らは軍事学校の教官たちでした
我々が到着するまで、彼らが守っていた前線です
敵の戦車部隊の突撃が予想されていた場所で、北サルティフカはチュルクナのすぐ後に位置し、危険で責任重大な場所でした
(チュルクナは2月24日にロシア人に占領され、ハルキウへの戦車攻撃の拠点となった村だった)

しかし、私たちの部隊には万全な準備があり、戦闘態勢が整っていました
私たちは経験のある9人のメンバーでした
何をすべきか、どのようにすればいいか、誰もが知っていました
あそこでは敵の的確な砲撃を受けていました
しかし、家の中にいれば大丈夫でした

Serhiy Vasylyukは、北サルティフカであなたと一緒でした

そこで起こったことについてインタビューして、彼にも「怖かったですか?」とききました
貴方にも同じことを聞きたいです

Serhiy Vasylyukへのインタビュー:

https://censor.net/ua/resonance/3381847/muzykant_i_boyets_130_batalyionu_tro_sergiyi_vasylyuk_vorog_vidstupyv_prychomu_panichno_lyshayuchy_ne

塹壕の中にいたときほどは怖くなかったです
砲撃時に建物の中にいると、天井や壁が動き、漆喰は崩れますが、「Grud」や120mm砲弾には耐えられますから
ロケット弾や爆弾なら駄目ですが
私たちの真上にあるビルには、戦車がいました
私たちが地上にいるときは、戦車の乗員たちが地下で生活していました
「みんな、肝が据わっているね」と、よく言われたものです(笑)

グラッド弾が3発、窓を突き破って地下室に飛んできたこともありました
幸いなことに、全員が助かりましたが、あそこは全部燃えてしまいました

貴方もいたのですか?

ええ、上の階にいました

常に攻撃を受けている多くの一般市民が、いつしか、それが苛立ちや怒りになったと言っています
軍隊ではどうでしょうか?
どんなことを感じましたか?

おそらく、怒りもあります
毎日砲撃されていますから
しかし、私たちは心理的にも物理的にも、その覚悟ができています

どのような経緯でハルキウに配属されたのですか?

私たちは、恐れ多くも、模範的な部隊となったのです(笑)
すべてのコミッションが私たちのところにやってきて、尋ねました
「なぜそんなにきれいなんだ?爆撃の被害は無いのか」ということです
爆撃されると掃除してました
砲撃のたびに、天井がちょっと跳ねて、壁が動くと、埃が落ちてくるのです
そのため、当直員がすぐに掃除をしていました
「掃除なんかしたくない」 とか「もう掃除はいい」などとは言わなかったのです
チュルクナに移動したときは、すぐに7人分の塹壕を掘り、丸太で覆い、すべてを屋根で覆いました
くつろげる場所になりました

そして、6月9日に最前線に向かいました
そこで一夜を過ごし、塹壕づくりを開始しました
これが一番大切なことだからです
この作業の一日は、あっという間に過ぎました
夕方になると、ラシストが戦車から砲撃してきました
距離は1.5キロメートル、双眼鏡で見ることができました

その時、私は傷を負ったのです
防弾チョッキを着て塹壕の中にいたのですが、破片が飛んできて、腕の動脈を切ってしまいました
血が 「飛び出す」のを見て、余命10~15分と悟りました
1回の心拍で30ミリグラムの血液が「吹き出て」いたのです
血液は4リットルしかありません
(注:1リットル程度で失血死する)
だから、あまり時間がなかったんです
塹壕の中で一緒にいた仲間も何とかしようとしたが、無駄だった
私の腕は地面に落ちていました
止血帯をつけようとしたが、上腕三頭筋だけで押さえているため、うまくいかなかった
意識を失いました
小隊長が呼ばれて来ました
先輩の上官と一緒に車で来てくれました
想像してみてください
私は100キログラムの体重で、さらにアーマーを着用しています
しかも、塹壕から引っ張り出さなければならず、それに、腕が無い状態です
それでも、彼らはやり遂げ、私は車に乗せられました

助けてくれた人たちのことを思い出します
彼らに本当に感謝しています
私は「去る」ことになると思いっていました
仲間たちに、妻にとても愛していると伝えてくれるよう頼みました
あと数分しか生きられないことを受け入れたのです
この時、無線で「負傷者を避難させる(具体的に誰かはわからないが)」と聞いた息子が向かってきていました
私は息子のおかげで生き延びたんです
彼が動脈を手で塞いでいました
私は車の中で正気に戻りました
私の身長は、息子より少し高いです
戦術医学の基本に従い、私の脚は高く上げられていました
血液が流れ、心臓が動き出し、私は正気に戻ったのです
「無駄な力を使うな!離せ!大変だ!」と息子に言いました
しかし、息子は言う事を聞かなかったのです
衛生兵のスビャート(コールサイン)が、痙攣して手のひらが開かなくなった息子の腕をマッサージしていました

私は、「抗体(注:おそらく、輸血パックを指している)」が用意されている避難所に連れて行かれました
トランシーバーはロシアのREBに妨害されて使えないので、避難所の方では負傷者を運んでいることさえ分かりません
そういう状態で私は運ばれました

REB(電子戦):

一人の男が私のズボンを切り始めました
「何してるんだ!新品なのに勿体ない!」と私は言いました(笑)
しかし、プロトコルによると、服は血まみれだったので、他にも傷がありそうなところをチェックしなければならず、そうしなければならなかったのです
15分以上経過した頃、痛みを感じるようになりました
つまり、ショックは過ぎ去ったのです
生きていると実感しました
頼んで、麻酔の注射を打ってもらい、出発しました
車が動いているのではなく、飛んでいるように感じました
ビーバー(コールサイン)が、本当に感謝しているのですが、思いっきりアクセルを踏んでくれました
私は床に寝かされていましたが、ほとんど宙に浮いていました(笑)
数分を争う事態で、みんな急いでいました
そうして、キーウ救命チームがいるデルガチに運ばれたんです

神業で血を止めてくれました
すごい現代の技術です
そこで私は再び気を失いました

集中治療室で意識を取り戻しました
「私は生きているんだ!」と実感しました
しかもプレゼントがありました
私の腕はまだ付いていたのです
確かに、腕が切り落とされたことは覚えていたのですが、つながっていました
まさに奇跡のような出来事でした
外科医のヴォロディミル・ヴォロディミロビッチ(彼の姓は知りません)がイリザロフ装置を付けてくれたそうです
そうして私の腕は救われました
そこに6日間滞在して、その後、(現在滞在している)キーウのイルピン病院に送られました

イリザロフ装置

(つづく)

https://censor.net/ru/resonance/3387659/mikola_donchenko_ya_yishov_na_vyinu_schob_zahistiti_sina_a_viyishlo_tak_scho_vn_vryatuvav_men_jittya

参考:

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