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荒ぶるモノ

人知を超越した存在についての勝手な考察

 日本語には「モノ」と発話する言葉がある。

 日本語研究をやっていた訳ではないので、その辺りの知見はかなり怪しい。個人的な妄想だと思っていただければご幸甚極まる。
 日本語というのは、もともと発音というか発話から成立した言語であって、文字を持たなかった。我々が使っている文字は、全て「輸入もの」を取り入れて、自分たちの使い勝手に合わせているのだ。平仮名もカタカナも漢字由来であることは論を待たない。ただ声として発話することに、何か意味を持たせているのが日本語であると言えよう。
 その前提に立って「モノ」とは何か?である。
 自分の独断ではあるが、いわゆる人格を持った存在は「者」、それを持たない存在は「物」、ここまでは目に見える存在なのだが、それ以外に目に見えない、得体のしれない存在のことを「鬼」と表したのだと思う。
 存在するように感じるが、それが何かわからない、理解の範囲外に存在する「モノ」を「鬼」と呼んだのだ。
 虎柄パンツに角を生やしたのは「オニ」である。人ならぬ存在に姿を与えて理解しようとしたのだろう。もともと「鬼」というのは、魂とか死人とか幽霊、その他諸々の怪しげな存在表している文字だ。
 人に災厄をもたらす存在、それを「鬼」と呼んだ。
 だから、その人知を超えた荒ぶる力を抑え込み、災厄をもたらすのではなく、佳き事だけをもたらしてくれることを願い、人は祈りを捧げるのだ。
 私は「神」という存在を信じない。
 おそらく人知を超えた「何か」の存在は信じるが、それは「神」などといいう言葉でヒトが語れるモノではないのだと思っている。
 「神の御加護」などというが、人知を超えたモノが、たかがヒトに加護など与えるものか。
 「神の御導き」とか、そんなことがある訳ない。私たちが道端のアリを導いたりしないように、そんな都合の良い「神」などはいない。
 「神」は人知を超えた存在、すなわち「鬼」と同義だ。得体の知れない「何か」である。
 私たちは、その荒ぶる身勝手さが我が身に降りかからぬように、日々祈るしかないのだ。

碧緑に澄んだ水は何を語り掛けてくるのか

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