すずめの戸締まりとナショナルなもの

 新海誠監督の「すずめの戸締まり」を見て民俗学っぽいという感想が多く散見されている気がする。それは「君の名は。」や「天気の子」が公開された時も同様であった。「言の葉の庭」以前から新海誠は古典作品の引用をおこなってはいるが、「君の名は。」にはじまる三部作ではより具体的に民俗学的なスピリチュアル要素を押し出して描くようになっていった。では、そうした描写は新海映画にとってどのような意味を持っているのかということを「すずめの戸締まり」の感想を交えながら備忘録的にメモしていく。

 「君の名は。」以降、新海誠は国民的映画監督になったが、それは文字通り新海映画が国民的=ナショナルなものへと成長していったことである。「君の名は。」ではムスビという語やカタワレ時といった民俗学的概念(あくまでも的)が瀧と三葉の入れ替わりを説明するし、「天気の子」では古来から続く天気の巫女が陽菜であり世界へ直接的に影響を与えていく。そして「すずめの戸締り」では閉じ師の家系の草太と出会ったすずめが地震を防ぐために日本各地で開いた扉を閉めていくロードムービーである。

 まず、すずめの本名は岩戸すずめである。これはもちろん天岩戸から名づけられているし、「すずめ」の名前も天岩戸を開いた「アメノウズメ」に由来することは公表されている。この点だけで既に日本神話的色彩を帯びているが、すずめは登校途中に草太とすれ違い廃墟の場所を聞かれる。その後、草太を追いかけたすずめはテーマパークの跡地で後ろ戸を発見し、物語が始まるのだが、テーマパークの跡地も「千と千尋の神隠し」で千尋の父親が言った「90年頃にあっちこっちでたくさん計画されて」「バブルがはじけてみんな潰れちゃった」テーマパークの跡地そのものである。扉がある場所が浸水しているのも千尋が異世界から戻ろうとして川に入るシーンを想起させる。その後、すずめによって要石から解放されたダイジンによって草太は椅子に変えられ、ダイジンを追って2人の旅が始まる。宮崎、愛媛、神戸、東京と日本各地の美しい風景とともに色々な人たちと出会い、物語は進んでいくのだが、東京の皇居の地下に開いた扉を閉めるにあたり、草太は要石がダイジンではなく自分であることを知り、自ら犠牲となって日本を救う。このシーンは日本神話の神武東征に重ねられる。草太が変えられた3本脚の椅子は八咫烏とも言えるだろうし、常世の国からやってくる不具神とも言えるだろう。要石を突き刺したすずめは天皇を表象する存在であるといえるだろう。

 一方ですずめの旅と新海誠の美しい風景についても考えなければならない。新海誠の描く美しい風景は登場人物の感情と連動していることも相俟って非常に高い評価を得てきた。私も好きだ。ただし、新海誠が国民的映画監督になるにしたがって、新海の描く「美しい日本」の風景に関しても一度振り返ってみる必要があるのではないか。かつて国鉄と電通が「DISCOVER JAPAN 美しい日本と私」というキャンペーンを仕掛け、「an・an」「non-no」の刊行とともにアンノン族が生まれ、旅行が促進されていった。新海の描く日本のどこかの懐かしく美しい風景は見るものに共感を与えていく。また、神武東征に絡めて言えば、明治維新を迎えて国民国家を作っていく過程で天皇が全国を巡幸し、それを国民が視覚的に認識することで国民の自覚を深めていった。すずめが日本各地を旅し、扉を閉じる行為を見ることでナショナルなものに絡めとられていく。それはミミズと要石の歴史を説明する場面で出てきた行基図や龍に囲まれた日本図にも表れる。現在も韓国や中国と竹島や尖閣諸島の領有をめぐって古地図が証拠として提出されて争われるように、地図は領土の範囲を画定し国を形成していく存在である。中世に作られた日本地図が描かれることで〈日本〉という国の自明性が示されていく。皮肉なことにこれまで新海誠が描いた北限は青森県(北海道は分断された別の国)で南限は鹿児島県種子島である。新海誠が今後、北海道や沖縄といった植民地支配の歴史を持つ地域を描くのかは分からない。しかし「君の名は。」で瀧と奥寺先輩が言った「郷愁」という写真展でまなざされるように、新海映画で描かれる美しい日本の風景にも改めて注目していく必要があるだろう。

 「君の名は。」以降の新海映画は世界の原理の説明に古来から連綿と続く民俗学的説明が差しはさまれる。民俗学という点も折口信夫が現在の習俗から古代を見ようとしたようなイメージがひとつとしてあるだろうし、地域の郷土博物館に展示されている民具の集積や柳田國男の『遠野物語』を端緒とした民話のふるさとで町おこしをしている遠野市のようにどこか懐かしいイメージをまとう。しかし、民俗学自体が江戸時代に始まった国学の系譜を持ち、かつ近代化で失われていこうとする習俗を再発見していった運動であることを忘れてはならない。「君の名は。」でユキちゃん先生が「糸守のお年寄りには万葉言葉が残っている」というように古代からの一貫性が語られる。地方の言葉や習俗を古代と結びつけるのはまさにかつての民俗学的発想によるものだろう。そうした連綿性の強調は容易にナショナリズムへと結びついていく。「すずめの戸締まり」では地震が人の手によって防がれている一方で地震を防ぎきれないこととして受容していくかのような説明がなされる。しかし、そこには地震の被害だけで、関東大震災に伴っておこった朝鮮人虐殺や福島第一原子力発電所の事故などの人災の側面は漂白されてしまっている。震災という点においては、「すずめの戸締まり」が公開される直前に震災描写があることがリリースされ、現在も震災にトラウマがある人への注意がSNSなどに溢れている。これも国民的映画監督であることの裏返しであるともいえるが、一方で個々人の感情に訴えかける「エモさ」が売りとなっているともいえる。その中で震災も視聴者の我が事として扱われ、大局的な視点は後景化されていくのではないだろうか。〈国民的映画〉によって絡めとられた個々人のエモーショナルの集合が作り出すナショナルなものに気を付けなければならない。

追記
藤田直哉『新海誠論』(作品社、2022)が新海誠とナショナリズムについて論じているらしいので後で購入する。


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