備忘録「小説作法XYZ」島田雅彦

19 夢の中では誰もが無意識に、ストーリー・テラーとして振舞っている。それぞれの夢は、神話と同じく荒唐無稽で、目覚めている時の論理で解釈し切れない部分があるが、夢の不可解さこそ無意識の奥底から立ち上がる生々しい想念の表現であり、それこそが創作の原点なのだ。

24 私は夢からヒントを得て思考することで、小説や詩や戯曲を書き進めている。しかし、夢を源とする思考は社会的なものではなく、人とコミュニケーションを取る際に必要な論理も欠けている。それこそシャーマンのように夢見る自分とそれを解釈し、翻訳する自分の二度を引き受けることになる。無意識と意識のあいだをせわしなく行き来し、一種の人格解離状態になっている。

→暗黙知の形式知化

29 文学は、自分の意識の中に他者の意識を宿す営みであり、他者の記憶を受け入れて、自分の脳の中にプールすることでもある。

→他者の暗黙知を自分の暗黙知化すること

43 アリストテレスの「詩学』は、模倣(ミメーシス)、カタルシス、逆転、再認、受難などの手法を示しながら、ホメロスの英雄叙事詩や古代ギリシャ悲劇を分析した芸術論である。ストーリー・テリングの実践的な方法を極めて具体的に述べている。創作とはこれ全て自然の創造物の模倣であるとする「ミメーシス」の芸術概念を提示し、「詩的語法」としての比喩の本質を、本来の語に取って代わる他の語への「置き換え」、異なった事物のあいだの「類似」を発見するという二つの要点から論じている。

→人は自然の創造物の模倣に美を感じ、感動を覚える

51 しかし、それぞれが勝手に言い募る中で時々、奇跡的なハーモニーが生じることがある。自分を攻撃する相手の声に耳を傾けた瞬間、何かが変わる。軋轢により生まれる不協和音を重ねてゆくうちに不思議な調和に転じたり、不協和音そのものが心地良いという別次元に向かう。
(中略)
対話を重ねる弁証法的な展開により、起承転結の構造をより大きくダイナミックに広げることができる。肯定、否定、止揚という運動をエンドレスに積み重ねてゆくことで、ストーリーテリングの新しい可能性が生み出される。

→プラトンの対話術 反復による高揚

111 哲学者もよく歩く。カントの日課は、生涯を送った町ケーニヒスベルクの森をそぞろ歩くことから始まった。「永遠平和のために」という晩年の著作も旅先での散歩から発想された。オランダの旅館の看板に「永遠平和」という言葉が記されていたというのである。

→ルーティン(日課)の散歩と偶然(旅先)の散歩

112 物書きの仕事上、欠かせないのは手よりもむしろ足なのである。そして、歩き回るからにはそこに無数の「偶然の出会い」が発生する。「ほっつき歩き」と「偶然の出会い」、この二つは近代文学を支える二大要素といっても過言ではない。

→インプットには偶然の散歩

116  山に登る心
  何ゆえ人はわざわざ我が身を危険にさらしてまで、山に登るのか? 人は死という避けがたい運命に対して、抗おうとする生き物である。それはむろん、生き残りに賭ける本能として働くのだが、同時に、死に限りなく接近してみたい誘惑にも駆られているのである。人を生の方につなぎとめるエロスに対し、常にタナトス(死の欲動)が桔抗しており、その危うい均衡の上に人は立っている。だから、エヴェレスト頂上のような死ぬかもしれない場所にわざわざ出かけて行って、生き残りに賭けてみたりするのである。

→エロスとタナトスの間の動的平衡 臨死状態への誘惑(クライマーズ・ハイ)

123 老作家はお雪と別れた後も、稲妻に照らされたその横顔を思い出したりする。未練というのは記憶との戯れでもある。別れた女、失われた場所、消え去った風景、遠い過去の出来事を蘇らせる儀式でもある。

 →忘れるための儀式でもある

124 だが、見方を変えれば、トンネルの向こうの世界は実はあの世であるという読みも成り立つ。近親者、ほぼ全員に死なれている川端は、その思い出を『雪国』の登場人物たち一人ひとりに仮託している。だとすれば、これは列車で定期的にあの世に通う男のロードノベルということになる。

→トンネルの先に光が見える 臨死状態

143 物理的世界から見れば、量子が作り出す現実はあり得ないが、量子は物理的世界を生み出す元になっている。つまり、量子的な非現実が物理的な現実を作り出し、存在の確認すらできない量子が物理的な存在を生み出している。
(中略)
理論上、量子はいかなる可能世界も作り出すことができる。

→田坂広志「死は存在しない」

145 たとえば、そこを訪れるのは初めてなのに、前に来たことがあるような気がする例の「デジャ・ブ」は無意識にパラレルワールドに踏み込んだ経験に由来する、ともいわれている。

→記憶と小さな差異がある場合にも「デジャ・ブ」は起きやすい なんとなく違う

156 線的時間と循環的時間
過去・現在・未来という線形的な秩序を前提にすれば、「後戻りは効かない」という時間の不可逆性を認めなければならないが、それも絶対ではない。だが、海から高潮や津波が押し寄せてくれば、川には逆流が発生する。時間が川ならば、未来から過去に向かって流れることもあるわけだ。人は成長し、変化し続ける限り、時間は未来に向かって流れているように感じるが、過去を振り返る時は時間を逆行させている。
 時間はくるくる回り、無限に反復されると思うか、それともまっすぐに進み、いつか終末がくると思うか? この問いかけへの答えもその人の時間感覚を申告することになる。

→反復もすれば線的にも進む「らせん的」な時間

206 瀬戸内寂聴の自由閥達ぶりはとりわけ猥談の際に際立っていた。僧侶になったのは性的妄想を極限まで高める修行が目的だったのではないかと疑うほど熱心だったので、猥談に付き合うのは本当に楽しかった。

→性的妄想を極限まで高めるために小説を書く島田さん

209 プロレタリア文学に限らず、文学は一貫して労働者に味方してきた。そして、持たざる者の復讐、あるいは権利獲得の道具として機能してきた。そこで、私たちは文学でいかに既得権益を貪る連中と対抗しうるのか、小説で竹中平蔵を殺せるのか、を真剣に考えなければならない。

→大江健三郎の分厚い小説ならできるかも

213 年収四百万円の人の経済感覚では、たとえば四百億円の使い道は思いつかないだろう。学生にアンケートを取ってみたところ、貯金と答える者が三○%くらいいて、大いにがっかりした。バイクやらPCやら欲しい物の一覧を価格付きで表示し、残りの三百九十九億数千万円を寄付すると答えた学生には「A」評価をつけた。文学的知性とは四百億の有効な、あるいは気宇壮大な使い道を思いつくということである。

→「三千円の使い方」の文学的知性

214  ヒトの寿命ばかりは金持ちも貧乏人もさほどは違わない。またヒトが一生を通じて味わえる快楽の分量も決まっていて、金持ちがより多くの快楽を味わえるというものでもない。快楽は金で買うものというより、脳で作り出すものだからだ。誰しも左右一対の脳を持つ。それを使うのに金は要らない。

→人生の最期に最大級の快楽が待っているので、量的にはみんな一緒
→記事「死の陶酔と臨死状態の光」参照

220 ある時、大学の授業で「友だちに借金している人?」と訊ねたら、正直に手を挙げる学生がいた。「十万ほど借りている」というので、「借金したことで、関係が変わったか?」と聞くと、「敬語を使うようになりました」と。

→天候大荒れで停電騒ぎのクリスマスの日のニュースで、
クリスマスプレゼント何がいいと聞かれて子供曰く「電気」。

226 ところで、私が本当に読みたい私小説は不都合な真実を隠蔽し、虚言と陰謀を繰り返し、ひたすら既得権益を守り、国益よりも私利私欲を満たして来た政治家が赤裸々に自身の暗部をえぐり出す懺悔録である。書く資格のある人はたくさんいるものの、書かれる可能性は極めて低い。おのがメンツを守るために他人の口封じをしようとする権力者とおのが愚行をさらけ出す私小説家、人としてどちらが上かと問われれば、迷いなく後者だと私は答える。 

→迷いなく「下の下」と「下の中」

230  老いらくの恋
  新学期が始まる四月は教員にとっても憂鬱極まりないけれども、一つ楽しみがあるとしたら、教室で息をのむような美しい女子学生がこちらに熱いまなざしを向けているかもしれないということだ。三百もの顔が並ぶ大教室には見ていて飽きない顔の学生たちも少なからずいて、教壇から眺めると、そこだけスポットライトが当たっているように輝いている。だから、講義中もついそこばかり見てしまう。男でも女でも語りかける相手が美しいと、コトバは磨かれ、饒舌になる。講義の出来不出来はやはり学生の質にも左右される。その意味で講義は疑似恋愛みたいなものだともいえる。

→やっぱり「下の下」

234 悩める者が夢見るための機械、あるいは悩める者の相談に乗ってくれる機械、それがコンピュータにほかならないのだから。おそらく汎用型人工知能は男であり、女であり、大人であり、子どもであり、健常者であり、障害者であるような複合的な人格と意識を持ち、かつ無意識を兼ね備えているだろう。それはシャーマンや詩人、小説家が目指してきたことと一致する。

→無意識を人間が把握しコンピュータが備えるのはいつの日か



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