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主なき悔い

『死ぬ瞬間の5つの後悔』という本がある。筆者は人生最後の時を過ごす患者たちの緩和ケアに携わった、オーストラリア人だ。

その1つ目は、「自分自身に忠実に生きれば良かった」というもの。
人生の終わりを迎え、じつは達成できなかった夢がたくさんあると悔む。本当にやりたかったことやかなえたかった夢を前にしながら、なぜ挑戦しなかったのか。
“変化”を恐れ、必要だった大事な選択を避け続けてきた姿勢に遅まきながら気づき、悔いを抱えたまま人生を終える人が多いそうだ。

次に、男性に多いそうだが、「あんなに一生懸命働かなくても良かった」
仕事に時間を費やし過ぎず、もっと家族と一緒に過ごせば良かった。仕事に向けられた情熱や時間の一部を、ほんの少しだけでいいからもっと大切なこと(家族との時間や自分の趣味)に使えばよかったと悔やむ。
命が終わろうとしているとき、本当は自分の近くに寄り添っていて欲しかった人や事が、何ひとつないことにたじろいでいる。

3つ目は「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
なぜあそこで黙ってしまったのだろう、どうして感情を押し殺したままの日々を送ってきたのだろう。
自分の気持ちを封印したまま、消えるように生が終わってしまうことへの忸怩じくじたる思いは消えないままだ。
このまま自分は、可もなく不可もない存在で終わってしまうのか。

4つ目は「友人関係を続けていれば良かった」
かつて大事にしていたはずの友との関係を、無意識のうちに思い出す。その彼・彼女と疎遠になったまま、かなりの時間が経ってしまった。
関係が途絶えた原因は何だったか、気付けば電話の一つかけず、SNSや手紙のやり取りもなくなってしまったのはどうしてなのか。
もしかするとそれは打算的な繋がりだったからで、自分本位な”友情”にすぎなかったからなんじゃないか。

5つ目は「自分をもっともっと幸せにしてあげればよかった」
世のため人のために生きなさいと親や人生の先輩から教えられ、少しでも社会貢献したいと努力した。
多くの選択を経て、進むべき道を自ら切り開いてきたと信じてきた。
振り返ると、そこに自分の意思は反映されていただろうか。いつも相手ばかり見ていなかっただろうか。
ひとの意見や世の風潮に流されたまま、周りの目ばかり気にしていた。
つつがなく生きられたと思っているのは錯覚で、八方美人や風見鶏のような生き方をしてきたことで、自分の内側にぽっかりと穴が空いている。

別に批判的に見ているわけじゃないし、部分的には「そうかもな」と思ったりするが、今の自分にしっくりこない感情の方が多い。
還暦を過ぎて足腰が弱っているのは実感するし、右の上腕筋じょうわんきんで物を持つとき痛みやしびれを感じたりする。
鏡に映る目元のたるみを見るたび、「おれ、齢とったなぁ」と思う。

ただ、それで慨嘆がいたんしたり嘆いたりの気分には、全くならない。むしろ「老いるまで生きてこられてありがたいこっちゃ」と思うのみだ。

今後、様々な身体的・認知的機能は減退していく一方だろうが、いやだ、怖いとは思わないし、不安もない。これで老後の資金もないのだから、我ながらスゴイというか、どこか頭の回線が外れている可能性も少なくないはずだ。

辞めたくて辞めた会社じゃなかったし、いればいたでそんなに不満なく定年を迎えられたと思う。
環境はがらりと変わり、今や地域貢献のための活動が、生活の主体になってきた。まったく別の生き方のようで、現役時代の経験を活かせる場面が意外なほどある。過去に無駄なものはないなと、実感させられる。

「世のため人のため」が「自分のため」につながり、60歳を過ぎて新しい事に挑める現状は、決して悪くない。
金儲けだってあきらめたわけじゃないが、才能のなさは自覚するところである。それでも残りの人生で、ビッグになってやるぜとお気楽な野望も抱いている。一応でも言っとくと、言わないより現実に近づける気がするのだ。

人生観は人それぞれだ。
『死ぬ瞬間の5つの後悔』よりも、死の間際に聴く音楽を5つに絞ることの困難さが、僕にとってまだまだ長生きしなくちゃの原動力になっている。
あとやっぱ、ビッグになってやるぜ。

イラスト hanami🛸|ω・)و

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