見出し画像

DA・DA・DA

たとえば僕のような素人しろうとでも、毎日文章を打っているうち特定のパターンというか、独特なクセがついてくる。
句読点くとうてんの位置だったり、英数字と漢数字の使い分けだったり、文と文との繋がりから生まれるある種のリズム感やメロディのような流れだったり。
文体には(過去に影響を受けた)複数の作家からの影響があるはずだし、日常会話のテンポも無意識に取り込まれている。
そうやって表現のコツをつかみ、文体を磨き洗練していく過程プロセスを、「上達」するというのだろう。

たとえばスポーツをする人なら、付帯ふたいする要素は幾つあろうとも、究極きゅうきょくの目的となればひとつだ。
それが水泳であれば、少しでも早く泳げるようになりたいという欲求。

健全な精神がはぐくまれること、身体能力が身に付くこと、水中での安全に関する経験や水の事故を未然に防ぐ論理的な思考力が育まれること等、水泳のメリットはいくつもある。
だからと言って、いくら泳いでもタイムが変わらないままで満足できる人なんて、いないはずだ。
むしろ、我流がりゅうのまま毎日泳ぎ続けたとしても、ある程度までなら早く進めるようになっていく。
何度も同じ動作を繰り返すうち、姿勢や息つぎなど、ラクで効率の良い方を身体からだの方で選ぶようになるからだ。

人間というのは、自覚なしにも上達(向上)を目指すようにできている。
それをとどめたり後退させようとしたりするなら、本来の生存本能に対抗するだけの価値観や、強い自覚と意志が必要になる。
元来がんらいそれは、生きていくのに不必要と思われる行為だからだ。

ところが世の中には変な人がいて、人類が盲目的に一方向へと「上達」していくのは、間違ってるんじゃないかと考えたりする少数者が現れる。立証するために一度、理性を否定してみようぜとなるわけだ。

欧米人にとって理性とは、手に触れられるほど具体的なものとして信じられてきた。動物と人間の差は、理性の有無うむにあるとされる。
ルネサンス以降、理性は神にかわる存在にまでなっていく。西欧文明は理性の上に成立しており、理性の否定は全文明の否定とイコールだった。
ところが20世紀初頭、理性の在り方を問われる大きな出来事が起こる。

人類の歴史でいさかいの絶えた瞬間ときなどありそうもないが、1914年から始まった「第一次世界大戦」の規模は、それまでの規模をはるかに超えていた。
戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上。少なくとも、1,600万人以上の人が亡くなったとされている。

戦争による圧倒的な破壊と残虐な大量殺人をの当たりにして、「人間に理性はあるのか」「そもそも、理性とは何か?」という疑問を抱く人々が登場する。
ヨーロッパやアメリカの都市で起きた、ダダ(ダダイズム)という芸術運動だ。

ダダは理性の否定、すなわち作為を否定し、意識を否定した。
それまでの意識的に作られたすべての芸術を無価値とし、無意味な作品を作る無意味な努力にこそ、「価値」を創出した。偶然性や無作為の中に、新たな美を見出そうとしたのだ。

マルセル・デュシャンの作品「泉」は、小便器を横にしてR. Mattとサインしただけのものだ。便器は用を足すものであり、作為的に美を追求しているものではないというのが、その論旨ろんしである。

当初はその新奇な発想から持てはやされたダダ(ダダイズム)も、数年後にはすたれていく。人類の生理にそぐわない人工的な美意識である以上、それは避けがたい帰結だったろう。
ところが、理性を否定する動きはここで収束するどころか、形を変え所を変え、現代にまでつながっていく。

また(たぶん)明日。

イラスト hanami AI魔術師の弟子



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?