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MSD(ミンガス好きだけど大好きじゃないんだよな)

チャールズ・ミンガスがベーシストのポジションに徹していたら、どうなっていただろう。
バンドリーダーにとって相当使いにくいオヤジだし、スコット・ラファロとは違った意味で、主役を食っちゃうプレイをしていたかもしれない。

1954~5年録音『The Fabulous Thad Jones』を聴いてみると、1曲目から「あぁミンガスだ」とすぐ分かるほど、すでに個性が確立している。
ソロなんか露骨にミンガスの体臭がムンムンしてくるし、このとき30代前半だから、まさに絶倫ぜつりんって感じである。
ところが『I'll Remember April』や『You Don't Know What Love Is』になると意外なほど裏方に徹し、主役サド・ジョーンズの引き立て役に回っている。

いい演奏だと思う。サド・ジョーンズはやっぱり上手いし、バックも有名どころが名を連ねている。
同時に、なんか変なズレを感じる演奏でもある。ノリが悪いんじゃなくて、どこか合っていない。
原因は、やっぱりミンガスだろう。サド・ジョーンズのアルバムのようで、実質のリーダーはこのベーシストなのである。そしてリーダーの音楽性を消化できていないメンバーによる録音だから、いいんだけどイマイチ入り込めない、現代音楽っぽいジャズになっているんじゃなかろうか。

そう思ってジャケットのサド・ジョーンズを改めて見ると、なんとなくミンガスを意識しながら、ヘタこくと殴られるんじゃないとビビりながら上目づかいに吹いている印象が、なくはない(こじつけです)。
サイドマンに徹しようとしても、スタンダードナンバーをいくら無難にこなそうとしても、ミンガスにとっては無理があったんじゃなかろうか。

ミンガスを聴くうち突如、雷に打たれたごとく「わかってしまった」のは、『Mingus』をかけていたときだった。
エリック・ドルフィーも加わった『MDM(Monk Duke & Meの略。キミはDAIGOか)』を聴き進めるうち、「コレってどこまでがスコアでどこからがアドリブなんだろう」と思った。エリントンのようなビッグバンドであれば、合奏とソロの区分けは明瞭である。ミンガスは数10人規模で生み出されるエリントン・サウンドを、数名という限られたユニットで再構築しようしたんじゃないか。

曲の進行も、意味深いみしんである。
セロニアス・モンク『Straight No Chaser』に始まり、デューク・エリントン『Main Stem』が続く。
そして自作『51番街のブルース(Fifty-first Street Blues)』となるわけだが、3者ともにエリントン・サウンド(モンクはピアニストとして、ミンガスはアレンジャーとして)であり、自己の音楽的ルーツの表明になっている。

それを可能にするための手法として、言わんでもわかる優秀なメンバーは不可欠であり、意に介さなければ殴ってでも言うことを聞かせる、暴力装置が発動したのではなかったか。冒頭のトロンボーンのソロ(多分ブリット・ウッドマン)なんて、「こわいよ~」と泣いているようである。
そしてドルフィーは、どこで吹こうがドルフィーである。ミンガスにとってかけがえのない”楽器”は自我を持ってヨーロッパにとどまり、そのままってしまった。

しかしこれは、果たしてジャズ(=アドリブ)なんだろうか。外見はそうであっても、むしろクラシックのような再現芸術の範疇はんちゅうに入れるべきじゃなかろうか。
メンバーが曲者くせもの揃いで個々に尖っているから聴き手がまどわされるだけで、本質はミンガスの脳内にある完成済みの作品を、優秀な楽器をそろえ再現させてみたに過ぎないのかもしれない。もちろん「過ぎない」というのは言葉のあやで、そんなことが可能な人間はごく限られるだろう。
誰もやろうとせず、誰にもまねできない音楽手法を確立したがゆえに、ミンガスの後継者はいないのだ。

「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」は有名な格言だが、そうはいっても現実に、「名曲」は無数にある。スタンダードナンバーをどう料理するかがプレイヤーの腕の見せ所であり、ジャズを聴く醍醐味の一つでもある。
ミンガスには、『Goodbye Pork Pie Hat』という例外を除き、「名曲」として扱われる作品が残されていない。
『Pithecanthropus Erectus』も『Wednesday Night Prayer Meeting』も、名演奏であり名アレンジではあっても、「名曲」と評価されることはない。こんな存在は、他に例がないだろう。

ミンガスが「好き」である。トランプさんと一緒でお近づきにはなりたくないが、はたで見ている分にこれほど面白いミュージシャンもいない。

「大好き」かと問われれば、「いや、そこまでは」と答えるだろう。どうもマイルスにも同根の印象を持っているのだが、黒人至上主義を貫いたかのような彼らに、黒人であることのコンプレックスの裏返しの心理をいでしまうのだ。
黒人として歌い、白人社会と命がけで対峙したビリー・ホリデイやサム・クックの素直な真剣さよりも、エリートを意識した、屈折した心の内側を感じ取ってしまうんだよなぁ。
個人的には。

イラスト hanami🛸|ω・)و


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