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ノスタル爺ア

週末。
妻と買い出しのため「道の駅掛川」まで出かけた。清水の住まいから1号線バイパスに乗り、片道小1時間ほどのドライブになる。
ここで売られている地元農家さんの玄米が、安くておいしい。5㎏をまとめて3袋買えば、夫婦2人で2~3か月つので、その頻度ひんどでこちらまで出向く。

車中、1歳と3か月になる孫娘の話題になる。
正月に帰省し、数か月見ないだけでおどろくほど成長している幼子おさなごは話題に事欠かない。
この先、昨日できたことが明日は出来なくなっているかもしれない自覚を持つ身に、日々成長のあかしを獲得していく存在を間近まぢかにするのは、やはり嬉しいものだ。何事もなく健やかに育つよう、願わずにいられない。

しかし妻は、息子夫婦や孫のこれからを悲観的に予見し、「かわいそうだ」と後ろ向きである。
たしかにここ数年、信頼に足るべきあらゆる存在は、霧散むさんしてしまった感がある。

民主主義の超大国がトップを選ぶ際、大きな不正の気配濃厚だったおかしな選挙。
今もって起源すら明確にされていない、おかしな世界的流行り病はやりやまい
今となっては理由も定かでないのに、いつまでも全国民に打てと迫るおかしな注射。
毎月数万人の単位で増え続ける、おかしな超過死亡数。
一方的な殺戮さつりくや力による侵略を肯定する、おかしな論理。
誰の目にもおかしな政策や人事の繰り返しから、右肩下がりに落ち続ける国力。それを糾弾きゅうだんしない財界やマスコミ報道。
未来に希望を見出すのは、実に困難だ。

デジタルに取り囲まれた現代。孫娘が生まれた瞬間から存在している、圧倒的な情報社会を生きるとはどういうことか。
話題は自分たちが幼いころ、まだ現役だった500円紙幣や黒電話へと移っていく。

銭湯上がりに呑んだ、甘いコーヒー牛乳。
校内新聞をガリ版(謄写版とうしゃばん)でったこと。
バスに乗れば必ずいた女の車掌しゃしょうさん。ある日を境いにワンマンに変わって感じた味気なさ。
家庭用クーラーなどなく、蚊帳かやを吊って寝た夏の夜。麻の優しい香りと、特別な空間に囲まれ幸福感に満ちた寝入るまでのひと時。
トンボメガネと白いギター、長髪にした男たち。
マクドナルドとマックシェイクを、初めて味わった時の衝撃。
粗大ごみから拾った、CECのレコードプレイヤー。ベルトを変えると自前の最新DDプレイヤーより、はるかに豊かな音楽を奏でててくれた思い出。

不便でも「あの頃はよかった」とは、いつの時代も年寄りが抱くノスタルジーに過ぎないか。
それとも、実はいつの時代にあっても、「あの頃はよかった」こそが真理と思えても来る。
利便性に難があっても、今ほど多彩な食生活でなくても、気密性に劣ったすきま風吹く住まいであっても、衣食住に足り未来が常に明るかった昭和の一時期、人が生きる上で最適なバランスが取れていたのではないか。

「便利」を「不便」に戻すことは出来ない。
一方で、鍵をかけず暮らせた安全な日本をどう再構築するか考えなければ、更なる「便利」の代償としての「危険」が増大していくのも道理である。

歴史に学ぶなら、「あの頃はよかった」時代がどうであったか、回顧ではなく今こそ検証が行われるべきだろう。「不便」だからこそ、人は支え合いながら生きていけるのだ。
(今も鍵をかけず平気な)田舎に暮らす元・都会人の視点から、そんなことを思ったりする。

イラスト hanami AI魔術師の弟子

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