昨日

1時間ほど前まで大学時代の友人と久しぶりに飲みました。
いや久しぶりってほどでもないか。今年に入って3、4回目くらいだからぼちぼち会ってますね。
今日の会話で感じたことはみんなそれほど難しい会話はしていないということ。
でも会話力があるように感じるのは自分の考えを言語化できているからだと思います。
要は、でまとめるとすると正直内容としては浅いことしか話していない。
それを言語化によって知恵があるかのように感じさせることができるのだと。
まあ実際言語化能力があるのだから知恵があると言えばあるのでしょう。
すごい上から目線な言い方ですが本音です。
言語化できるということは何故その考えに至ったのか自分の中で消化できているということ。
消化できるということは論理的な思考ができるというとことなのでやはり頭がいいのでしょう。
でも彼らはそれを意識して今まで生きてきたのでしょうか。
おそらく日常生活を送る中で自然と身についたものだと思うのです。
では何故僕は周りの友人と比べて言語化能力が劣っているのか。
今までの人生をパッと振り返ってみると思い当たることがあります。
僕は小、中、高と比較的周りからいじられて学校生活をおくっている人間でした。
高校の時はマシでしたが、小、中学生の時は今思えばいじめだったのでは?と思うのです。
それから僕は自分から積極的に行動することを控えるようになったと思います。
行動するということは目立つということ、目立てば角が立つ。
角が立てばまたいじり、もといいじめ?の対象となるから。
なるべく目立つことを避けるという意味で自分から行動しなくなっていったのだと思います。
これが当時で終われば良かったのですが、未だに僕は自分から積極的に行動することに躊躇いがあります。
それはやはり無意識下に人からの批判を避けるための僕なりの防衛本能が備わってしまったのだと思います。
これはもう死ぬまで取り除くことはできないでしょう。
一生付き合っていくしかありません。
なかなか人生ハードモードだと思います。
悲劇のヒロインを気取るつもりはないですが、ぼくのような持たざる者の気持ちをわかってくれる人は少ないでしょう。
精神的な部分は表面化しにくいので結局気合いが足りないだの、気の持ちよう等と言った無責任な言葉で片付けられてしまいます。
そういえば昨日の飲み会でこんな話が出ました。
結婚して何年も経つのになかなか子供ができない、と。
やはり世間的にはデリケートな話題であり、当事者にとっては辛い部分があるのでしょう。
つらいんだろうな、とは感覚的には感じるのですがその感覚的止まりであり、何故つらいという感情に至るのかわかりません。
生物として劣っていると感じるからでしょうか。
女性の中にはそれによって涙を流し、ひどい時には抑うつ状態になってしまう人もいるようです。
そういった表面化した部分はデリケートなものとして扱うのに、僕のような根本的に精神状態が不健全な人間は特に大事に扱われることはなく、、、
僕から言わせれば子供ができないなんて一時的なもので、周りからも気を遣ってもらえるなんてまだまだ悩みとして序の口な気がするのです。

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