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母とのお別れ そしてそのあとの私 part 1


もうすぐ母が旅立って、1年になる。
そう言うと、周りの人達は皆一様に早いねぇ、と言う。
本当にね、早いね、
もう1年。
あの日から。

母は、亡くなる2年ほど前から、有料老人ホームに入居していた。
施設長=経営者という、こぢんまりとした有料老人ホームであった。
ちょうど、コロナ全盛期の頃。
おおかたの老人施設では、面会は全面的に禁止というような状態が続いていたが、特別に、玄関先で、週に3回ほど、短時間という条件付きではあるが、面会を許可していただけた。
母の年齢や、私たちの家庭の事情などを気遣っていただいたものだと思う。
そのご厚意には、今でも感謝している。

一昨年のクリスマス。
施設でのクリスマスパーティーで、母がトナカイのツノが付いた帽子を被って、嬉しそうに笑っている写真がLINEで送られてきた。
子供みたいで、面白く、姪たちにも写真を送った。
超高齢になれば、可愛いと言っても失礼じゃないよね、と姪たちは可愛いを連発していた。
帽子はいたく気に入ったようで、その後、施設長がプレゼントしてくれた。
私が面会に行った時も、その帽子を被ってにこにこ笑っていた。よく似合っていて、思わず笑ってしまったものだ。

トナカイ帽子


特にひどく悪いところもなくて、元気そうに見えた。
まだまだいける、大丈夫そうだと思っていた。

それからたった1ヶ月後、1月の終わり頃から、母に異変が起き始める。
最初に聞いたのは、夜眠れないという状態が2日ほど続いて、その後、一日中眠っている、と言う話だった。

一日中眠って、取り敢えず起きたものの、LINEで送られてきた写真には、まだ夢の中様ですと注釈が付いていた。今まで見たこともない母の顔を、どう形容してよいかわからない。眠そう、と言えばそうなのだけど、それだけでもなく。
何か異変が起きていたから、眠れなかったのか、眠れなかったから異変が起きたのかわからない。が、それから母の体調は変化していく。終わりの始まり、そんな予感は確かにあった。

施設長から、毎日、何時でもいらっしゃって結構ですよ、と告げられた。
面会制限解除は、もう、そういうことなのであろう。
毎日、朝、夕に施設に寄って、母に会った。
ご飯時は、車椅子で食堂にいることが多かった。
あとは殆どベッドの中のようだった。

朝は笑顔で手を振ってくれた母が、夕方には不穏になって、大きな声を出す。
朝はご飯を食べましたよ、と言われ安心していると、夕方は全く口をつけない。
私のことがわからないというより、全く眼中にないというような日もあれば、姉は元気かと聞く日もある。
触らないで、と激しく怒りをみせる日もあった。
目まぐるしく母の様子は変化し、私も混乱した。
身体の危機を察知した脳は、色んな脳内物質を出すという話を聞いたことがあるが、そういう現象だったのだろうか。脳内物質の何かが、母を操っている、そんな気がした。
人間を人間たらしめるものは、やはり脳内にあるのだろうと、ぼんやり考えた。

「その日」はもう、そんなに遠くはないのだろう。
3月になろうかという頃には、はっきりとそう
認識せざるを得なかった。

中治り現象
という言葉をご存知だろうか。

母が旅立つ7日くらい前。
母は、突然、以前の母に戻った。
私の顔を見ると、にこにこと微笑み、手を上げた。ご飯も少ないながら、きちんと食べるようになった。差し入れのいちごを手渡すと、子供のように喜んで笑った。
この1ヶ月半くらいの間の変化は、まるで何かが憑いていたのでは、と思わせるくらいに元通りの穏やかな母だった。
本当にこのまま回復するのでは、と錯覚しそうだった。

ろうそくが燃え尽きる前に、炎が一瞬ぱっと明るく大きくなる、のにも似た現象。
中治り現象ですかね、
私の問いに、施設長は何も答えなかった。

旅立つ前々日、仕事帰りに寄った時、母は、夕食の後にすぐ寝ると言ったらしく、ちょうどベッドに入るところだった。
もう寝るの?そう聞いた私に、母は小さな声で、
寒い、
と呟いた。
母のはっきりした声を聞いたのは、
それが最後だった。

part2へ続く


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