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お金にまつわる四方山話し

私は直接お金を扱う仕事としては、レストランのホール仕事でレジ打ちした時に、クレカ対応を含めて携わったことがあるが、このお金を払っていただく場面でいろいろと商売のイロハを学ばせてもらった経験がある。
例えばレジでお客様が小銭を落とした時に、すぐに出てくれば問題ないが、ちょっと見ても見当たらない時は、お客様の言ってきた金額を渡す。
もし、万一お客様がごまかしたのだとしても、自分の懐が痛むわけではないし、そのお客様は店に心理的に借りが発生するので、次の来店に繋がりやすい。
お釣り間違いなどの時も、お客様の指摘通りに嫌な顔しないで応じる。大きな五千円札、一万円札の違いなどは慎重に対応するが、そうでない時はお客様の指摘に沿った対応をする。
この場合もお客様のミスを指摘したら逆上してどんな報復にでるかわからないし、店の雰囲気も悪くなる。
大体、商売というのは道徳じゃない。儲けてナンボの世界である。
損得勘定に敏感にならなければならない。相手を道徳的に諭したり、道徳的な人間に教育するのは学校の先生や親の役目である。
真実、事実よりもどちらが得かの世界で、小銭でカタがつくならば、お店側がドロを被り、次の来店に繋げて、他のお客様の心象もよくなる、その小銭以上の宣伝効果になるのだ。
お客様は神様です、というのは、本当に商売の上手い人の言葉である。
いい気分にさせてお金をいただく、というのは客商売の基本だ。中には女王様に虐げられて喜ぶ気質の方もいるが、いい気分にする以上はお客様が上なのだ。
商売上手の人ほど、商売上手の顔はしていない。どこか抜けていそうな、人の良さそうな顔をしている。
大体、お金が絡む時点でそこに対等な人間関係はない。
武士は食わねど高楊枝、ではないけれどお金は卑しいものに任せて、身分で、武力で食べている人々は現代でも存在する。
やんごとなき身分の方々、各種公務員、年金生活者、生保の方々、などがそれで、人によっては誰かに扶養されている方も含まれるかもしれない。
年金も給与も銀行振り込みになり、消費税の登場で誰も彼も納税者になり、平等意識が浸透してきた中で、承認欲求や存在意義などに悩んでいる人も多い。
お金を稼ぐ人は偉いのか
労働者は偉いのか
額に汗水流して働く事の美学というのは確かにある。誰かが働かなければ世の中というのは成り立たないから。
何のために働くのかは人により違うだろうが、対価としてお金が絡む事は間違いない。
障がい者や海外から出稼ぎに来ている人を法外な低賃金で働かせている事業所も多く、そういう人の労働なくしてはもはや私たちの生活はなりたたない。
また、最低賃金で働く数多くのエッセンシャルワーカーの存在も忘れてはならない。
今、どうあったら勝ちなのか、の競い合いを人類はしている。
江戸の昔から、いい暮らしをしているのは商人と決まっていて、士農工商の一番低い身分が実質実権を握っているのは、現代も変わらない。
それは、武士道の武士、実直さの農民、技の匠に比べて、抜け目ないのが商売人であるから、人間としての質の問題上はこの順番なのかもしれない。
幕末、明治維新、日清、日露戦争、第一、第二次世界大戦を経て、敗戦の焼け野原から、見事に復活したのは、エコノミックアニマルこと、日本のサラリーマンの力ゆえだった。
今は落ち目の日本だが、一時は、ジャパンアズナンバーワンだったのだ。
バブル崩壊と共に、経済も消費マインドも冷え込み、しばらく経つ。世界で売れているのは海外製品ばかり。
私たちは一体どこに向かっているのか。
商売人としてのマインドは主に社会人になって叩き込まれる。昔は読み書きそろばん、と言って子供の頃から習うものだったが。
大体、商売人というのは、手の内を読まれてはいけないから、商売人の書く本に感銘受けても、セミナーに行って良いことを知った気になっても、肝の部分は、本当に信頼おける、それも後継者のみに伝えられていくもので、その感覚は時代読みの技術と共に一子相伝の世界なのである。
人から学ぼうとする時点で二番煎じは免れない。
でも、大概の人は初心者向けのありきたりの知識を有り難がっているように見受けられる。
私たちは何を学ぶべきか。
日本独自の教育に、道徳がある。
道徳は宗教が根付かない、なんでもちゃんぽんの日本にあって、唯一の心の拠り所となっているものである。
それは、商売の肝が誰にも伝わらないような仕組みになっているのとは違い、誰にも理解されやすい当たり前のことを、理想のあり方を教えるものである。
良い人を作る。それは自分一人では損になるだけだから、周りのみんなも等しく良い人になるように教育していく。
一見良さそうにみえる考え方である。
ただ、それが、誰のためにそうするか、そうなるかが、問題なのである。一人の人間に対して、一つの組織のためであったら、国粋教育になる。
グローバリズムの世の中にあっては、あまり、現実的ではない。
コロナで海外に自由に行けなくなった時期を経て、今、アフターコロナの時代に新しい価値観はまだ、表立っては出てきていない。
商機のある人は次の時代読みで水面下で動いている。
お金が欲しい人は、表だった目に入る情報の価値よりも、密かに取り引きされている情報に価値をおくから、様々な商材が売れるし、セミナーに人が入る。
そこはお金が欲しい人で溢れている。
お金があったら良い暮らしがしたいと口を揃えて言う。
良い暮らしってなんだろう。
いろいろあると思うけど、いい暮らしをしていると、犯罪者に狙われる。
お金持ちほど、質素に暮らしているのは周知の事実である。
インスタ映えする暮らしをしている人は、その一枚のために、他を切り詰めているかもしれない。
で、その犯罪者をなくすというのは、警官のみならず、一般市民の悲願だが、欲に目が眩んだ人が次から次に新たな集金システムを作り、人の心を冷やして荒んだ世の中にしていき、犯罪を犯すものが後を経たない。
そして、うちにうちにこもっていく。
大切なものってなんだろう。
そうまでして命を守って何になるんだろう。
と考えると様々な欲があることは、健全なんだろう。
欲があるから、経済は発展する。
欲を満たすために様々な社会システムがある。
赤ちゃんは生存欲の塊である。
そして、死と共にあらゆる欲と縁が切れる。
死者は何も語らない。欲しがらない。
死人に口なしとはよく言ったものだ。
だからこそ、周りの人が、推測して、想像して語る。
推測して語るのは、死者にのみ行われるものではない。
生きている人の言外の言葉を推測するのは、人であれば、誰だってすること。
そして、気にやむ人もあれば、悪意を持つ人もある。
それが、お金に絡むことならば、人を病人にも悪人にもさせる。
反対に、お金には何もできないが、お金で動く人によって、物が食べられ、服が着れて、家に住めて、医療、福祉を受けられる。
様々な社会システムが成り立ち、娯楽を享受できるのも、お金によって動く人の働きのおかげである。
やりがい、などという搾取する側の綺麗事に騙される人が後を経たないが、かと言って、やりがいのない仕事などつまらないだろう。
つまらない、というこの言葉は、飽きた、と対になり、あらゆる経済の源になっている。
刺激的な日々を過ごしたい。
スマホはそれを叶えてくれる魔法の小箱である。
格安SIMを利用すれば、安価にアクセスできる。
そして、この小箱であらゆる欲を満たす。

ここで基本に立ち返る。
よく経済というのは、水の流れに喩えられる。滞っていては澱む。
将来が不安だからと、溜め込みすぎる、もう充分年寄りの人も多い。
子供や孫を助けてあげようという、年寄りの優しい気持ちに付け込む振り込め詐欺もあとをたたない。
そして、冷え込む人心。
若い人は、お金を使えない、使わない、でも、使っている人を羨む、妬む。
このマインドをどうにかしないと、経済は冷え込む一方。
それにはどの考えの人が世の中を引っ張っていけばいいのか、というと、頭に真っ先に浮かぶのが、SNSのインフルエンサー。
いろんな方面で、センスを発揮している。
でもそこに、商売っ気が入り込むと、あっというまに大衆から、そっぽを向かれる。
買わされる感覚というのが、イヤなのだ。
人というのは、本心や本当の気持ちというものを欲している。
嘘や偽りは嫌なのだ。
宣伝になるという感覚。
あらゆる損得勘定。
それらをストレートに出せば、シラけるから、オブラートに包み、善人ヅラしていかに、誠実に本当らしくみえるかを競うのが商売。
イメージを売るのが商売。
スポーツや勝負事に人々がロマンを見るのもうなづける。鍛えた筋肉や頭脳は裏切らない。
そこに、日々頑張るモチベーションを見出す。
お金の匂いを嗅ぎつけて、子供に過度に習い事をさせるのはいただけないけど。
お金に対して、儲けることに対してのアレルギーというのは、いつから、どこから生じるのか。
お金で動く人を卑しいと感じる心が、根底にあると思うが、生きていく上で、動いてくれる人というのは、親以外は全てお金で動いてくれる人なのである。
そのことを自覚すれば、お金に対しても、儲けることに対しても、アレルギーが薄まると思うのだが。
何かをしてもらうには、対価が必要で、タダで何かをしてくれる人はいない。
そのことを頭に叩き込むと次に現れる敵が宗教。
一見、お金でなく善意、という衣を纏っているが、気づくと貧乏になっていたという話を見聞きする。
何故だろうね。
そこら辺のメカニズムはわからないけど、お金よりも大切なことがあることはわかる。でも、それをお金を出して学ぶつもりはない。
教会への献金も、奉仕している人へのお給料になるんだろうけど、本末転倒な気がして、教会から足が遠のいた。
なぜか、綺麗事をいう人が、お金に絡むことをいうことを忌み嫌う文化がどうしてもある。
私もその文化の壁を乗り越えられなかった一人である。
正義感の強い人は、世の中の不正が許せないのだろうけど、その正義感は、ウルトラマンやセラムンなどを観て植え付けられたものなので、とっとと捨てた方がいい。
世の中にははっきりした悪人も、全くの善人もいない。
どうしようもない悪人にはどうしようもない親がいたりするので、親子問題の根深さを思うと、声高に正義を振りかざす気にはなれない。
イジメ問題の傍観者よろしく、親子問題にも、助けられたであろう、近所の人はいただろうし、そう考えていくと、問題は四方八方に飛散する。
お金が絡む、責任問題に発展する枠内に留めないと視点がボヤける。
結局、何も言えなくなる。
だいたい、我が家に視点を移すと、老人を近所で支え合いましょうと言ったところで、死んだらそれまで遠巻きにしていた血縁者がのこのこでてきて、財産持っていってしまうから、バカらしいというのが、本音だ。
ちょっとしたことを助けてやれば、人って骨折して寝たきりにでもならない限り、一人で暮らしていけるもの。ちょっとしたことをやってくれる人がいたら、遠方に暮らしてる子供もどんなに楽かと思うが、近所に菓子折り配って根回ししない限り、そんな人は現れない。
これから、単身高齢者がどんどん増えていく。
せっせと貯めたお金目当てに近づく有象無象。
昔は宗教に頼る手もあった。今は担い手も高齢化が進んでいるようなので、お金がない時点で門前払いかもしれない。
お金に左右されない人間関係があれば、一生困らない。
でも、その人間関係を築く機会を壊したのが、ネットワークビジネスや新興宗教で、私も子供が学生の頃は勧誘されまくり、人間不信になった。

結局、誰も何が真実なのか、わかっていない。真実なんてものはないのに、あるかの如く語ることに心が千々に乱れる。
お金を使いたい衝動すらも、本心かわからない。踊らされてるだけかもしれない。
後生大事に守ったところで意味のあるものなんてこの世にはない。
高齢処女の方と知り合いになり、
「神様に守られて本当によかった」
とマウントを取られたので、心の中で
「女の喜びも知らないかわいそうな人」
認定したくらいで、処女性すらも、守るべきものとは思っていない。
まして、お金なんて持っていても使わなければ何の意味もない。
年取ってから困る。というが、日本に医療費がタダになる生活保護がある限り、野垂れ死ぬことはない。
入居者がほぼ生保という介護施設に勤めている姉が言うには、
小金持ちが一番損
とのことである。生保の人が介護施設には入れないことはないのだ。身寄りも持ち家もなければ、役所を頼るしかない。医療的ケアが必要な高齢者を生保だからと、ほったらかしにはできない。そういう人が入る施設もあるのだ。
誰だって歳をとる。稼げなくなる。
でも、情報を知っているのと、知らないのとでは、雲泥の差が生じる。
テレビやネットの偏った情報に踊らされることないようにしたい。

お金にまつわる話をあれこれしてきましたが、何がいいたいかというと、お金というと、貯める、増やす、という話ばかりなので、間をぬって、商売とはという話から、お金に関して日頃感じてきた思いを書き散らしてきました。
お金にまつわる話は決して美しくありません。
お金には、それで苦しめられてきた、苦しんでいる怨念が染み付いているからです。
これからも欲ある限り、お金に踊らされる日々を送るでしょう。
決して人ごとにせず、これからも考えていきたいです。
お金が大切と金融の道を選んだ長女。
やはり、命が大切と医療の道を歩んでいる次女。
人とつながることが大切と通信キャリアの道を行く三女。
どれも大切で、どれか一つは選べません。
私にはなくてはならない世界で働く娘たち。
残してやれるのは、お金だけというのは悲しい。
この壊れた頭でも思いつく不変の真理の探究を続けていきます。
今、を生きている証として。