ボードゲーマーに贈る「サンスーシ」の歴史的背景


ボードゲーム「サンスーシ」とは

 アークライト/智Fractal Juegosから2023年に発売されたボードゲーム「サンスーシ(原題:Sanssouci)」は、貴族の屋敷に美しい庭園を造るタイル配置型パズルゲームです。

 本作は2013年に独Ravensburgerから発売された同名作品のリニューアル版で、アートワークが一新された他、ミニ拡張2種も同梱されています。
 ゲームデザイナーはボードゲーム界の世界的な雄たる一人、ミヒャエル・キースリングです。単独のデザイナーとしては「アズール」、ウォルフガング・クラマーとの“黄金タッグ”では「ティカル」や「カッカーラの宮殿」、他の若いデザイナーとの共作では「ヘブン&エール」など様々なボードゲームを発表している多作な人物で、また数々のボードゲーム賞を受賞しているトップデザイナーです。
 現在のボードゲーム界ではデザイナーの著作権が重視されるため、著作権者の許諾が取れれば出版元を変えて再販(たまに権利関係の問題でタイトルやフレーバーが変わることもありますが)されることも珍しくなく、オリジナル版発売から10年を経てリニューアルされた(ついでに日本語版も出版された)のが私の買ったヴァージョンになります。
 ちなみにボードゲームとしては、フリードリヒ2世が建てた宮殿を、甥のデンマーク王フレデリク4世が改修すべく、プレイヤーに新たな庭園のデザインを依頼すると言うフレーバーになっています。

 タイトルになっている「サンスーシ」は、ドイツのポツダム市に実在する宮殿で、フリードリヒ大王として知られる当時のプロイセン国王フリードリヒ2世によって18世紀半ばに建てられました。1990年には世界遺産にも指定されている、ドイツ屈指の観光名所のひとつです。
 18世紀初頭のフランスから始まった「ロココ建築」を取り入れ、外観は簡素ながら内装はドイツのロココ建築の代表とされる豪華絢爛な造りとなっており、これらは「フリードリヒ式ロココ」とも呼ばれます。
 また、この宮殿の庭園は直線や真円をデザインし道や植木などを線対象に配置することを重視した「平面幾何学式庭園」と呼ばれる様式で、幾何学的な白い道と緑の庭木、そして巨大な丸い噴水は航空写真でもかなり目立ちます。

 宮殿の名前であるサンスーシとはフランス語で「うれい無し (Sans Souci)」と言う意味だそうで、日本や中国では漢字で「無憂宮」と書かれることもあるそうです。
 今回は「大王」フリードリヒ2世は何を憂い、この宮殿を建てるに至ったのかを見ていきましょう。

フリードリヒ王子の災難

 フリードリヒ2世はプロイセン王国の第2代国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の4人目の子、第3王子として生まれました。兄2人は幼くして早世しており、フリードリヒ王子は事実上の後継者として育つことになります。
 プロイセン王国は神聖ローマ帝国の構成国のひとつで、フリードリヒ2世の祖父でもある初代国王フリードリヒ1世の時代、選帝侯から王に昇格しました。祖父は王としては凡庸で、彼の浪費によって国は財政難に喘いでいましたが、父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が大がかりな軍事・財政改革を行い、法や国土を整備し、また唯一参戦した大北方戦争で勝利、スウェーデンの影響力を一掃し後代の軍事強国プロイセンの基礎を築きました。
 そんな父王は「兵隊王」と呼ばれるほど軍人気質の武骨な人物で質素倹約を是とし側室を持たず、しかし妻子や国民にもそれを強いて監視のため自ら街に出て従わない国民に暴力を振るったりすることもあって、国民人気は低かったそうです。
 一方で母の王妃ゾフィー・ドロテアは後のイギリス王ジョージ1世の娘でジョージ2世の妹、夫のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世とは従姉で、洗練された貴族教育を受けた学芸に造詣の深い人物でした。
 このように正反対の性格だった両親の夫婦仲は芳しくなく、こと後継者たるフリードリヒ王子の教育方針では真っ向から対立していたようです。幼少期から教養や文化的素地に乏しかった父王は、フリードリヒ王子の教育係に「一切の芸術に近づけさせるな」と言い渡していたとか。しかしフリードリヒ王子は母親似の芸術に関心を寄せた性格で、特に音楽に才能を見せ、即位前の10代半ばで当時の著名なフルート奏者ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツに師事しています。父王の教育方針に反しているため、そこにどのような経緯があったのかは分かりませんが、母の助力も少なからずあったのではないでしょうか。
 ただ父王は、幼いフリードリヒ王子が花遊びより太鼓遊びを選んだ時は喜び肖像画を描かせた反面、後にフルートの演奏会を開くと怒り狂い、暴力を振るったり食事を与えなかったりしたこともあったとか。

 フリードリヒ王子は18歳のとき、遂に父親の抑圧に耐えかねて、イギリスの従姉との縁談もあってイギリスへの逃亡を図ります。しかしこの逃亡計画は事前に漏れて失敗します。当時のプロイセンは国際的にやや不安定な立場で、また父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世も亡き祖父フリードリヒ1世と仲が悪かったため、この逃亡を自身の暗殺計画の一環だと疑ってしまったようです。その結果、フリードリヒ王子も一度は死罪を言い渡され、最終的には免除されたものの幽閉、親友であり逃亡を手引きした近衛騎兵ハンス・ヘルマン・フォン・カッテは逃亡幇助の罪で目前で斬首されました。嘆き叫ぶフリードリヒ王子に対してカッテは「殿下のために喜んで死にます」と答え、遺書には「国王陛下を恨みませんので、殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますよう」と書かれていたそうです。
 ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の執り成しもあって、フリードリヒ王子は父王に恭順の意思を示し、父王もそれを受け入れ王領の運営を任せることにしたそうです。
 また父の命令に従って結婚し、妃エリザベート・クリスティーネもフリードリヒ王子に深い敬意を抱いていたそうですが、父に強制された結婚だったからか公の場でたびたび女性蔑視発言をするほどの女性差別主義者だったためか、夫婦らしい交流はなかったようで子供もできませんでしたが、王都に残った妃との文通は生涯続いたそうです。

 こうして結婚を代償に父から離れ領地を任されたことが幸いしたのでしょうか、それとも親友カッテの遺志に報いるためだったのでしょうか。父に与えられた軍務を忠実にこなす傍ら、フリードリヒ王子はヴァイオリン奏者ヨハン・ゴットリープ・グラウンや弟の声楽家カール・ハインリヒ・グラウン、チェコ出身のヴァイオリン奏者フランツ・ベンダ、私たちが知る「バッハ」ことヨハン・ゼバスティアン・バッハ(大バッハ)の次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハなど当時の著名な音楽家を集め私設の宮廷楽団を創設するなど、その才能を発揮し始めます。フランスの哲学者ヴォルテールへ最初に手紙を送ったのもこの頃で、かの有名な『反マキャヴェリ論』をフランス語で著し(当時のプロイセン宮廷ではフランス語がつかわれていたとか)、ヴォルテールに推敲と出版を依頼したそうです。ヴォルテールは依頼に応じて匿名でオランダで『反マキャヴェリ論』を出版し、その内容はフランスの哲学者シャルル=ルイ・ド・モンテスキューからも高く評価されました。
 やがてフリードリヒ王子の施政者としての才能は父王も認めるところとなり、晩年には「上手く統治する能力を全て持っている、分別もあるから大丈夫」と評し「後は息子に継いでもらうから、思い残すことはない」と全幅の信頼を寄せるようになりました。

フリードリヒ大王の憂鬱

 1740年、父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が持病で崩御するとフリードリヒ王子は即位しフリードリヒ2世となります。赴任地から王都ベルリンへ戻る際に私設の宮廷楽団も連れ戻り、彼らは正式な宮廷楽団となりました(お察しの通り、父王の代に宮廷楽団はありませんでした)。
 フリードリヒ2世は父王の暴力的で抑圧的な体制の改革を進め、オペラ劇場の建設やプロイセン科学アカデミーの復興など文化振興にも力を入れます。しかし一方で軍備を増強し、戦争に向けて着々と準備を進めました。

 フリードリヒ2世が即位する直前の1738年、プロイセン王国はオランダとの国境に近い西の領地をハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世に奪われており、代わりにハプスブルク家の領地(オーストリア)のうち、ポーランドとの国境に近いシュレージエン地方を要求していました。しかし要求が果たされないまま1740年5月に父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が、同年10月にカール6世が亡くなります。
 カール6世には男子の後継者がおらず、娘マリア・テレジアを神聖ローマ帝国の後継者として認めるか否かで、当時のハプスブルク家は内外諸国と揉めていました。カール6世がプロイセン王国から西の領地を奪ったのも、娘の後継を承認してもらうべくフランスの圧力に抗えなかった結果のようです。
 フリードリヒ2世は容認派ではあったものの、父王の要求したシュレージエンが未だオーストリア領であること不満を抱いていたため、カール6世に奪われた西の領地を取り戻し、かつ代償として要求したシュレージエンにも正当な所有権があると考え、1740年12月にプロイセン軍はシュレージエンに侵攻します。第一次シュレージエン戦争です。この戦争でフリードリヒ2世は階級の上下を問わず積極的に将校と交流を図り、また勝利したことで絶大な人気を得ることになります。
 しかしプロイセン軍の勝利によりオーストリアへ付け入ろうと後に続いた諸国が次々敗れ、フリードリヒ2世は強い危機感を持ちます。

「このままオーストリアが勝ち続ければ、シュレージエンを奪回される!」

 そこで表面上は芸術活動に取り組むなど平穏を保ちつつ、第一次シュレージエン戦争で判明した軍の弱点を補強し、オーストリアを攻めていたフランス・バイエルン連合と手を組み、イギリスやロシアなど周辺国にも手回しをして戦争の準備を水面下で進めます。一方オーストリアもイギリスやザクセンと手を組み、フランスへ侵攻。その隙にフリードリヒ2世は1744年8月、バイエルン軍と共にオーストリアへ攻め込みますが、このときは撤退するオーストリア軍に対してフランス軍が追撃せず、フリードリヒ2世の目論見が外れたことで敗れてしまいます。第二次シュレージエン戦争です。しかしその後の戦いでは連戦連勝し、最終的にマリア・テレジアと夫フランツ1世を神聖ローマ帝国の後継者として承認しつつ、シュレージエンと賠償金を獲得します。そしてこの勝利を機に、フリードリヒ2世は「大王」と呼ばれるようになりました。

 この二回に渡るシュレージエン争奪戦は、当時ヨーロッパで起きたオーストリアの後継者問題に絡む他の諸戦争と合わせ「オーストリア継承戦争」と呼ばれています。

フリードリヒ大王の休息

 シュレージエンを獲得したフリードリヒ2世はその後、産業の振興やフランスからの移民受け入れなど、戦争で疲弊したプロイセンの復興に力を入れます。
 しかしフリードリヒ2世はかつての父王のように仕事の末端にまで目を光らせたため、激務で健康を蝕まれるようになり、そこでプロイセン復興も兼ねて、ポツダムに離宮(静養のための別荘みたいなもの)が建てられることになります。
 フリードリヒ2世が自ら描いたスケッチに基づき、大王の友人でもある建築家ゲオルク・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフが設計図を起こしますが、他国の離宮にも負けない格調高い設計にフリードリヒ2世は難色を示し、そこでクノーベルスドルフは大王の希望に沿った、彼好みの平屋建てで部屋数も少ない小規模な離宮を設計しました。
 離宮の造営中も大王は細々とした仕事にまで目を光らせ、建築家としばしば対立し、気に入らない建物を取り壊させたり、工事を担当した建築家の交代などもあったようです。工事の担当者、かなり気を遣ったでしょうね……

 それでも僅か2年で完成した宮殿は、フリードリヒ2世の心の平穏を願ってフランス語で「憂い無し」と言う意味の「サン・スーシ」と名付けられます。フリードリヒ2世はこの離宮を大変気に入ったようで、その後サンスーシ宮殿は事実上フリードリヒ2世の居城となりました。大王は晩年「王位に就かなかったら哲学者になっていた」と言い、遺言書には自らの役職を「プロイセン国王」ではなく「サンスーシ宮殿の哲学者」と署名したとか。
 また、宮殿のほぼ真西には風車小屋が建っており、フリードリヒ2世は景観を損なうので取り壊すよう命じたそうですが、持ち主の農夫が裁判を起こすと言い出したため風車小屋は残されることになります(ちなみにプロイセン王国は大王の即位前から司法と王権が分立しており、大王の亡き親友カッテの刑も当初は無期懲役でしたが、強権的な父王の脅迫で死刑に変更されました)。
 この風車小屋は2024年現在も健在で、宮殿内部への入場チケット売り場はこの風車小屋の前にあるそうです(なお庭園は入場無料とのこと)。

 この時期、私たちが知る「バッハ」ことヨハン・ゼバスティアン・バッハ(大バッハ)が長男と共にサンスーシ宮殿を訪れており、フリードリヒ2世は彼にメロディを一節与え、バッハはそれに応え即興演奏を披露したと言います。
 バッハは後に、このときのメロディに基づいて計16曲を作曲し、フリードリヒ2世に捧げました。この16曲は、今日では『音楽の捧げもの』と言う名で知られています。

 またフリードリヒ2世はこの頃に、長らく文通相手だったヴォルテールをサンスーシ宮殿に招聘し侍従としますが、かつて『反マキャヴェリ論』で論じた君主像と第一次・第二次シュレージエン戦争で見せた君主フリードリヒ2世の実像の違いから対立することとなり、僅か3年でヴォルテールは職を辞しプロイセンを去ります。ただ、その後も両者の文通は続いたようです。

フリードリヒ大王の七年戦争

 第二次シュレージエン戦争での敗戦で、シュレージエン地方と引き換えにフリードリヒ2世に神聖ローマ帝国の後継者として認められたマリア・テレジアと夫フランツ1世でしたが、その後もシュレージエン地方奪還のチャンスを虎視眈々狙っていました。
 と言うのも、シュレージエンは農地としての適性が高く古くから農業や牧畜が盛んで、かつ石炭や鉄鉱石、貴金属などの地下資源が豊富、ヨーロッパのほぼ中央に位置する交通の要衝でもあり古代から大繁栄を続けてきた、周辺諸国が喉から手が出るほど欲する場所で、必然的に領土争いの中心となってきた地域だったのです。

 オーストリアの「女帝」マリア・テレジアは、女性蔑視のフリードリヒ2世を嫌うロシア皇帝エリザヴェータ、およびフランス国王ルイ15世の公妾「影の権力者」ポンパドゥール夫人と組んだ「反プロイセン包囲網」を目論み、対してフリードリヒ2世はフランスと対立状態にあったイギリスと手を組みます。しかし、長らく対立状態にあったオーストリアとフランスが1756年5月に同盟を結ぶと言う「画期的」な状況が明らかになると、フリードリヒ2世は不利な状況を覆すべく、1756年8月にオーストリアに与するザクセンへ先制攻撃します。第三次シュレージエン戦争、通称「七年戦争」の開戦です。セブン・イヤーズ・ウォー戦うよー。
 フリードリヒ2世の巧みな戦術で緒戦は優勢だったプロイセン軍ですが、敵国にスウェーデンなどの周辺国が加わったことで孤立し、苦戦を強いられるようになります。やがてイギリスからの資金援助が打ち切られ、フリードリヒ2世も乗騎や上着を銃弾に撃ち抜かれるなど死を覚悟するほどの劣勢に追い詰められますが、1762年1月にロシア皇帝エリザヴェータが急死、甥のピョートル3世が即位し講和に応じたことで、九死に一生を得ます。またスウェーデンとも、輿入れしていた妹ロヴィーサ・ウルリカの仲裁で同年5月に講和が成立。これらを機に他のオーストリア同盟国も次々と兵を退き、孤立したオーストリア軍との戦いになるとプロイセン軍は勝利を収め、1763年2月にオーストリアと講和します。こうしてオーストリアはシュレージエンをようやく諦め、プロイセン王国による領有が確定しました。

 またフリードリヒ2世はこの戦争を見越していたのか、直前の1756年3月にプロイセンの全ての役人に、ジャガイモ栽培の監視を言い渡す「ジャガイモ令」を発布します。
 ヨーロッパで主食だった小麦は、戦争による土地の荒廃や小氷期による不作の影響を受けやすく、当時のヨーロッパではたびたび飢饉が起きていました。その対策としてフリードリヒ2世は、それまで家畜の飼料作物とされていたジャガイモの栽培と実食を奨励したのです。何しろ可食部分は地下にあるので土地が荒らされても影響は少なく、痩せた土地にも寒冷な気候にも強い、栄養価に富んだ食糧です。
 荒らされた土地でジャガイモ栽培が盛んになり、飢饉や戦時の食糧調達問題も解決できたとあって、七年戦争が終わる頃にはプロイセン全土にジャガイモ栽培は広まっていました。
 現代ドイツ人のジャガイモ好きの原点が、ここにあります。

 そう言えば、日本におけるサツマイモ普及も、江戸幕府第8代・徳川吉宗が飢饉対策として薩摩から種芋を取り寄せ、1735年に小石川植物園で青木昆陽に栽培させたのが最初ですが、時代も近く理由もやってることも似てて、妙なシンパシーを感じますね。

フリードリヒ大王の反省

 その後のフリードリヒ2世はサンスーシ宮殿を拠点に、政務の合間を縫って友人との文通やフルート演奏、著作に励み、七年戦争当時から残しておいた記録を基に1763年に『七年戦争史』を、1780年には『ドイツ文学論』を上梓しました。その他にも多くの哲学論や軍事論などを著しています。

 政務においては、1763年、時のポーランド国王が死去すると、隣国のロシア皇帝エカチェリーナ2世がポーランドに内政干渉するようになり、これをフリードリヒ2世は警戒するようになります。しかし七年戦争で味わった孤立無援状態への反省から、細心の注意をもって周辺国との関係改善を重視した政策を取りました。
 1772年、マリア・テレジアの息子でオーストリアの共同統治者でもあったヨーゼフ2世に、ロシアと三国でポーランド領土の分割を持ちかけます。啓蒙専制君主の先達としてフリードリヒ2世を崇拝していた彼はこれを承知し、母マリア・テレジアを嘆息させたとか。このときの領土獲得でプロイセン王国は飛び地が地続きとなり、フリードリヒ2世は王としての名乗りを「プロイセンにおける王(König in Preußen)」から「プロイセンの王(König von Preußen)」に変えます。前者は「プロイセンと言う領域内での王」、後者は「プロイセンと言う国家の対外的な王」と言う意味合いがあり、すなわち、それまで(形式的には)神聖ローマ帝国の領邦だったプロイセンが、完全に神聖ローマ帝国から独立した国であることを公言したようなものでしょう。

 フリードリヒ2世はその後もオーストリアの勢力拡大を強く警戒し、1778年にオーストリアのヨーゼフ2世がバイエルンの継承問題に介入した際は、それを阻止すべくバイエルン継承戦争を起こします。
 しかし元々戦争に反対していたマリア・テレジアがすぐ和平交渉を持ち掛け、大王もそれに応じます。このため、この戦争では緒戦を除いて交戦することなく終結しました。しかし和平交渉は難航し、前線では休戦中、あまりにやることがなくてジャガイモ栽培ばかりしていたそうで。
 そして、この平和な戦争(なんだそりゃ)は、フリードリヒ2世にとって生涯最後の戦争となりました。

 最晩年のフリードリヒ2世は姉ヴィルヘルミーネなど若い頃から親しかった人々を失って人間嫌いが強く出るようになり、他人を遠ざけ孤独を好むようになり、愛犬たちを心の慰めにしていたと言います。芳しくなかった健康状態もますます悪化していき、1786年8月、老衰のためサンスーシ宮殿にて74歳で崩御しました。
 彼は生前、サンスーシ宮殿の庭園で愛犬たちの傍で眠ることを望んでいましたが、彼の遺志に反し、サンスーシ宮殿の南東に位置し父王も眠るポツダムの衛戍えいじゅ教会に埋葬されます。

 そのため教会はフリードリヒ2世の「聖地」となり、国内外からロシア皇帝アレクサンドル1世やナポレオン、ナチス党、アドルフ・ヒトラー暗殺計画の中心となった「黒いオーケストラ」など様々な人々が訪れ、自由選挙によるポツダム市議会が最初に開かれるなど歴史的出来事の舞台にもなりました。
 しかし第二次世界大戦中にフリードリヒ2世の遺体は各地を転々としたそうで、最終的には東西ドイツの再統一後、1991年にようやくフリードリヒ2世の遺言通り、サンスーシ宮殿の庭園に落ち着いたそうです。
 サンスーシ宮殿のフリードリヒ2世の墓には、現在でもその偉業を讃えてジャガイモが頻繁に供えられているそうな。

サンスーシ宮殿の改修

 ところでゲームのフレーバーによると「デンマーク王フレデリク4世は、叔父のプロイセン王フリードリヒ2世が造営したサンスーシ宮殿を改修」とあるんですが、ネット情報では何処をどう探しても「デンマーク王フレデリク4世」と「サンスーシ宮殿を造営したプロイセン王フリードリヒ2世」の関係が出てきませんでした。いったい何がどうなっているんでしょう。

 そこでサンスーシ宮殿の歴代の持ち主を調べたところ、どうやらフリードリヒ2世の甥の“孫”である19世紀のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、建築家フリードリヒ・ルートヴィヒ・ペルシウスに命じて宮殿を改修し、また建築家フェルディナント・フォン・アルニムに敷地の景観の改善を命じたそうなので、ゲームのモチーフとなっているのは実際はこの辺りの話のようです。
 フレデリクとフリードリヒは、同じ名前の言語による発音違いなので(日本語だと現地発音が重視されるのでデンマーク語ならフレデリク、ドイツ語ならフリードリヒと音写されます)「どの国」の人物かによって訳語が変わりますが、ミドルネームの「ヴィルヘルム」が抜けた点と同じ「4世」である点から混同されてしまったんでしょうね。全く、これだから同名人物がやたら多い欧米人は。
 改修に携わったペルシウスもアルニムも18世紀末から19世紀前半のドイツの代表的な建築家カルル・フリードリヒ・シンケルの弟子で、この時代にはサンスーシ宮殿造営時に主流だった華美なバロック建築やロココ建築よりシンプルで古代ギリシア美術に倣った新古典主義建築が流行るようになっていました。そのためサンスーシ宮殿も、一部はロココ建築から新古典主義建築に変えられています。
 ポツダム周辺には他にもバーベルスベルク城やバーベルスベルク公園と言った名所がありますが、これらもこの頃にシンケルや弟子たち、その他著名な建築家の手によって整備されており、サンスーシ宮殿の改修は、そうした整備の一環だったのかも知れません。

 なお原語版である智Fractal Juegosの商品紹介ページを見ると「フリードリヒ4世」は「叔父」フリードリヒ2世の宮殿を改修と書いてあるみたいなので(翻訳AI万歳)、これは単純に(オリジナル版かリメイク版かは分かりませんが)ゲームのフレーバーを書く時点で勘違いしてたものと思われます。

 日本語版テキストに原語版にない「デンマーク王」と付されているのは、恐らく訳者による情報の補完だったんでしょうが、そもそも原語版の情報が間違ってるので余計にややこしくなった感じですね。

 はーすっきりした。


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