恋愛について

noteの記事に次のやうな一節があった。

私も女の子との待ち合わせで駅の伝言板を使っていた世代です。
今思えばなんと不便だと感じますが、それは今の時代に携帯が当たり前にあるからであり、当時は不便さは感じませんでした。

電話ボックスに並んだ際、自分の並んだ場所がまわりよりも進みが遅い時に感じたあのイライラも、今となっては良い思い出です。

あの頃の『会えるかどうか分からないドキドキ感』は、今となっては味わう事の出来ない楽しみのひとつですね。

ともゆき@毎日投稿827日目2023/10/3

 わたしは、これを読んでしばらく、感慨にふけった。
 
会えるかどうか分からない
今となっては味わう事の出来ない楽しみ

 夫婦や親子などの愛情関係を主食のご飯みたいなものだとすると、恋愛はお菓子とかお酒とかコーヒーとかいった嗜好品に相当すると思ふ。

 性愛を絆とすると男女関係を恋愛にするのは、日常には無い刺激によって引き起こされるスリルだ。
 スリルとは、「それ自体不快でなく、むしろ楽しみの対象になるような恐怖感・不安感。また、それに付随して起こる緊張感。そのような感覚を生じさせるさまにもいう。」(日本語大辞典)
 性的な関係のある男女がスリルを感じる状態、そして、それを持続させる男女の関係が、恋愛だ。

 だから、男性にしても女性にしても、初めての男女関係は恋愛となることが多いだらう。手をつなぐにしてもキスをするにしても、
それ自体不快でなく、むしろ楽しみの対象になるような恐怖感・不安感。また、それに付随して起こる緊張感。そのような感覚を生じさせるさま
といふことになるからだ。
 さういった、いはば初心な心に生じる恋愛、つまりスリルは、人生に一回だけである。これを経験した後、また、恋愛と感じるやうな男女関係は、不倫や親友の恋人を奪ふといったものしかあり得ない。
 社会規範の中に埋もれて暮らす人にとっては、恋愛は一度だけである。その後の男女関係は、愛情の関係だ。そして、この愛情の関係には、恋愛つまりスリルは必要が無い。
 愛情関係になってしまふと、男女であっても、下手をすると性愛すら脱落することも少なくない。夫婦でセックスレスになるのは、愛情関係への移行であるなら異常でもなんでもない。セックスといふものは刺激が快楽の源であるから繰り返し同じ相手と行ってゐると必ず飽きが来る。飽きて、愛情が残れば、セックスレスの夫婦や恋人といふことになる。

 だから、はじめらか性愛関係でなくてもよいことになる。女性に多いが、同性の友人が人生の後半、愛情関係として、共に夫婦か恋人のやうに互ひを慈しみながら暮らすといふことも起きる。これはいはゆる同性愛である必要は無い。

 一盗二婢三妾四妓五妻と言はれたものだが、今は二婢三妾四妓が抜けてしまって、『五妻』に当たる「社会的に認められた恋愛や結婚の関係」から一挙に『一盗』にアセンドすることになる。

 スリルとしての恋愛は、結婚が「恋愛の墓場」となる。
 まだ生きてゐるのに墓場暮らしとなった女性としては、「夫がゐてもゐなくても、若くても若くなくても、私はひとりの女として、いつも恋をしてゐたい」と思ふのは無理もない。
 この場合の「恋」とは、先に述べたスリルのことだ。
「それ自体不快でなく、むしろ楽しみの対象になるような恐怖感・不安感。また、それに付随して起こる緊張感。そのような感覚を生じさせるさまにもいう。」

 なににせよ、恋愛を成立させるには、「楽しみの対象になるような恐怖感・不安感。また、それに付随して起こる緊張感」が必要で、それは、とりもなほさず、日常には無い刺激といふことになる。
 だから、婚外セックスや二股三股の関係などに対する、さまざまな禁忌が恋愛を生む。
 不倫のカップルがカーセックスをするなどといふことは、まさに恋愛そのものである。

 かういふことを見抜いて、三島由紀夫氏はいろいろな恋愛小説を書いてゐる。三島由紀夫氏の書く恋愛小説はなかなか悍(おぞ)ましいものが多い。
 それで、ずいぶんと恋愛に肩入れしてゐるやうに見えるが、恋愛に関しては
「トランプ遊び以上のものは何も無い」
と断言してゐる。

 遊びであるけれど、その遊びの中に在る「それ自体不快でなく、むしろ楽しみの対象になるような恐怖感・不安感。また、それに付随して起こる緊張感。」を本物にするためには、厳密な条件がある。
 非日常性である。

 恋愛が非日常的な刺激によって成立し、また、それ以外には成立しないことを、三島由紀夫氏がはっきりと語ってゐるのが、自決の一週間前に受けたインタビューだ。 

古林:三島さんの作品でね、ひとはあんまり話題にしないのだけれども、ぼくは「若人よ蘇れ」がね、好きなんです。好きである理由は、三島さんの原体験とね、結びついた三島美学があそこにはある。他の作品にないようなものが出てきている。三島さんがあの作品で不用意に現した素顔かも知れないという気がしてるんですがね。

三島:ただね、あの芝居どころの一番のモチーフはね、恋人同士がこういうことでしたね。今までわたしたちはね、明後日どこどこの公園で会いましょうって言う時ね、それは分からなかった。どっちかが空襲で死ぬかも知れない。その公園がなくなっているかも知れなかった。それだから、わたしたちの恋愛って成就してたんだ。今からはね、戦争が済んだ。明後日、日比谷映画で会いましょう、ってちゃんと映画やってるの分かってる、もう恋愛はない、あそこですよ、書きたかったことは。会えるか会えないかってこと。

 インタビュアーの文芸評論家は、なんとか三島氏の揚げ足をとらうとやっきになってゐるので、
「三島さんがあの作品で不用意に現した素顔かも知れないという気がしてるんですがね」といふことを言って、三島氏が「俺のことを見抜いたな」と驚くのを期待したらしい。三島由紀夫氏を嫌ふ人は、素顔とかなんとか穿ったことを言ひたがる。
 これに対して、文芸評論家の「慧眼」をあっさり無視して、
あそこですよ、書きたかったことは
と、三島氏が答へたのは次のことだった。

どっちかが空襲で死ぬかも知れない。
その公園がなくなっているかも知れなかった。
それだから、わたしたちの恋愛って成就してたんだ。

今からはね、戦争が済んだ。

明後日、日比谷映画で会いましょう、ってちゃんと映画やってるの分かってる、
もう恋愛はない。

 三島由紀夫氏が、
もう恋愛はない。
と断じたとほり、戦争が終はってから流行した自由恋愛は、男性の側としてはセックスといふ楽しみであり、女性の側としては自分で結婚相手を選ぶ手段であったのだらうと思ふ。

 
 日常性を揺るがす度合いで、恋愛らしさが決まってくる。
 今の日本では、日常性それ自体が揺らぐことはない。だから、恋愛らしい恋愛は、日常性を取り囲む社会規範と対立するものとなる。
 フリーセックスでは恋愛はまったく起きない。また、婚外セックスや不特定多数の相手との自由恋愛も、個人の自由の名のもとにおおっぴらに主張されてをり、社会はニヤニヤしながらそれを眺めるばかりだ。
 不倫を含めた婚外セックスは、セックスの刺激以上のものを生み出すことができず、恋愛と呼ぶには役不足である。

 戦争が起きない平和な日本では、もっとも恋愛らしい恋愛とは次のやうなものだと、わたしは、思ふ。

成人と未成年との男女関係
親子・兄弟姉妹の男女関係

かうした、社会の(恋愛の当事者の男女以外の)誰からも、必ず、悍(おぞ)ましいものとして、刑法などによって厳しく禁止されてゐるものでなければ、恋愛は生まれないのである。
 
 
 

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