文化は言葉である

大東亜戦争が始まった頃、『近代の超克』と題して学者や文学者が集まって対談したことがあります。内容は主にアメリカの文化文明の批判でしたが、全体的な方向としては、大東亜戦争を単なる軍事的衝突ではなく、日本を飲み込まうとする西洋の近代文化に対する文化防衛戦争の一貫と捉へやうとしたのだと思ひます。
もちろん、戦争に負けると、時流におもねったといふことで参加者は徹底的に批判され、参加者もただちに、大いに、反省したやうです。

かうして反西洋文化派がたちまち反省してしまったのは、近代の超克とは言ひながら、それに対抗する日本と日本文化が誰にとっても曖昧であったこともあります。
ユーラシア大陸の文明文化のやうに対立する異質な文化を滅ぼしてゆくことが文化意志である文明とは違って、自己主張が無い文化だからです。
曖昧であることが形態を維持してゐるといふ奇妙な文化は、戦後、アメリカ文化文明にいいように侵食されながら、それでも、日本人は英語を話しませんし、女性は乳房を半分見せるといふファッションを受け入れてゐません。
男女機会均等といふ観点など、さまざまな西洋文化文明の基準から見ても、
日本は世界的に見て異常に遅れてゐる
のが明らかです。インドやイスラム教国並みにアメリカ欧州の文化の本質に染まりきるのを頑なに拒み続ける側面を持ってゐます。そのことが日本人にとっても劣等感になってゐます。
わたしは日本人が日常会話を英語(仏語でもよい、とにかく欧米語)でするやうになるまでは日本文化の本質は変はらないと思ひます。英語が話せる人を崇拝し、英語が話せるやうになりたいと思ひながら日本語によって生きて来た日本人も、ついに小学校から英語教育を始めました。
英語を勉強しても話せなくては何もならない、といふのがアメリカに占領されて以来の日本人の英語観です。小学校でもそれは同じで、英語幼稚園の出身の小学生たちが学校で自慢げに日常会話を英語で始める☆と、小学生たちはみんな必死になって英語を話し出すと思ひます。
英語を話す子供と街に出て、子供が街中でも大声で英語で話してゐれば親も嬉しくてたまらないと思ひます。近い将来、日本人は、かうして或る世代から一斉に英語を話し出すと思ひます。
(☆今、わたしが住んでる関西の「文教都市」と呼ばれてゐる都市の小学生たちは学校でも家でも東京弁しか話さない。学校で「みんな」が東京弁だから。小学生は群体動物なので、英語に関しても同じ現象を起こすと思ひます)
その時、今、西洋と比べて遅れてゐるといふ問題はすべて解決されてゐると思ひます。それらは文化の本質が日本だったことから生まれてゐたからです。日常会話を英語で行ふことで文化の核は溶けてゆきます。
これは難しい話ではなく、日本から方言が無くなれば地方が消えるのと同じ現象です。文化は言葉の中にあるのです。
問題として残るのは、欧米文化文明が持つ問題だけになります。麻薬の蔓延、暴力、殺人、強姦、強盗、窃盗、詐欺などの治安の悪化、離婚と未婚の女性を母に持つ子供の増加、ジェンダーの多様化(事実上の崩壊)、そして、自国民の減少と反比例して移民家族によるイスラム教徒の急増。
自由と民主主義を利用しながら滅ぼしてゆくイスラム教文化文明と対立できるのは、西洋の自由と民主主義を崇拝しない中華文化を持つ中国だけなので、世界はイスラム教と中華の2つの文化文明の世界になると思ひます。

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