嘲笑について


“わたしはいつのころからか、どもりだったらしい。らしい、と言うのは、そうした自覚のないままに過ごしてきて、小学3年のある日、教室で友だちがわたしの物真似だとして「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼくは……」と激しくどもってみせ、クラスじゅうがどっと笑い声を挙げたことから、初めて自分でもそうと気づいたのだ。以来、しゃべるときには意識してゆっくりと、一語ずつ舌の先から押し出すように心がけることで、少しずつ少しずつ改善していった。とは言っても、いまだに何かの拍子に興奮して声を荒らげたり、酒に酔っ払ってクダを巻いたりすると、われながら呆れるぐらいどもることがあるので、決して根治したわけではなく、長年の習いでかろうじて抑え込んでいるというのが実情だろう。   であればこそ、トム・クーパー監督の『英国王のスピーチ』(2010年)はひときわ身につまされた。”

 笑ひとはなんなのか、よくわからないが、嘲笑に関しては、
人の属性
を笑ってゐるのだらうと思ふ。

 わたしなどは、オカマであることで笑はれることがあった。

 
 姉が七つ年上で、しかも、弟のわたしの世話を母に代はって引き受けてゐたので、わたしはものごころつくころには、姉の友達の女の子のグループの中にゐて、一緒に遊ぶことが多かった。
 女の子たちは、わたしを小さい人形のやうだと言ってゐた。女の子たちは明らかに、わたしで遊んでゐた。わたしはオモチャだったのだと思ふ。
 わたしは、自分がオモチャの人形のやうにみなされることが嬉しかったのだと思ふ。オモチャの人形になれば愛されると思ったのだらうと思ふ。
(このことが、USJホラーナイトの『呪ひの日本人形』さんが、初めて動画で見た瞬間から、とんでもなくスゴイわたしの推しになってしまった理由かもしれない)

 女の子たちの中にゐるとき、自分のことを「あたし」とか「うち」とか言ふと「しょうちゃんは、『ぼく』ちゃんよ」と訂正された。それ以外は、何も言はれなかった。当時のわたしは、女の子たちの言ふことは何でもきいたので、一人称は「ぼく」となった。

 姉は、可愛い男の子を連れてゐると仲間に歓迎されるので、言葉のことはどうでもよかったらしい。
 家に帰っても、父親はわたしが起きてゐる時間には帰って来ないし、母親や祖父は、わたしにはまったく関心が無かったから、誰も、わたしの言葉遣ひ、そして、たぶんかなり女性的になってゐた挙動について、気にする者がゐなかった。家でも、トイレは大小とも個室を使ってゐた。

 わたしは、自分が男子としてはオカシイことを、幼稚園に入って初めて知った。幼稚園は普通は三年制らしいが、わたしは五歳で入った。
 わたしが五歳といふと、つまり十二歳の姉の友達の少女たちに毎日可愛がられていい気になってゐたのだが、その時になってやっと、自分の言葉が女の子のものだと知った。

 さぞかし男子たちの嘲笑を買ひ、いぢめられたと思ふかもしれないが、幼稚園の頃のわたしは、髪をのばしてスカートをはけば女の子としても通用したかもしれない容姿だったので、笑はれることはなかった。
 むしろ、女の子たちのグループに迎へられたわたしを羨ましそうに見てゐる男子の目すら感じた、・・・やうな気がした。

 小学校に入ってからしばらくすると、わたしがなんの気なしに、
「やめてよ、ひどい」
などと言ふと、先生も含めて教室が大爆笑となった。
 笑はれて当然だと思った。わたしの顔は、急激に男の子と化していき、誰が見ても男の子だとわかるやうになった。
 鏡を見るのがいやになった。

 オカマのおかしさは、男性であるのに女性的な言葉やしぐさをするからだ。
男性であるのに女性的な言葉やしぐさをする
といふ属性として切り出され、それを持つ男性は笑はれる。

 実際、可笑しい。
 わたしだって、ホモオダホモオには大笑ひする。


 このホモオダホモオが、まるで女性のやうに美しければ、昔でいふところのニューハーフとなることができる。

「最高に抜ける」って(^^;)
でも、これ自体は、エッチな動画ではありません。←残念がってるのは誰?

わたしもどんどんと女の子っぽくなっていったら、ニューハーフになってただらうと思ふ。AVには出ないけど、まあ、お嫁さんを目指したと思ふ。
笑へた?

ここで笑ってもいいんですよ。


ニューハーフは、笑ひの対象にはならない。男性なら性欲の対象にする人もゐるだらう。
 その場合は、
 性欲を喚起するに足る女体性といふ属性
に、男性たちは刺激を受けて、興奮するのだ。


 刺激を受けて興奮する
といふ点では同じだが、オカマの属性は、男女とも、失笑や嘲笑を引き起こす。

 嘲笑は、おそらく、わたしたちの
①日常を脅かす異物に出くはし
②だが、その脅威はさほどないので
③笑ふことで排除できる、振り払へる
と判断したときに、出て来るのではないだらうか?

 笑ひを、
①緊張が生じる
②それを緩和すること
であるといふ説はよく聞く。

 だから、オカマは、何かしら、緊張をもたらすのだが、それは笑へば解消できる程度のものだと無意識下に判断されるのではないかと思ふ。

 もし、オカマであることを理由に、執拗ないぢめや、徹底的な排除、不当な差別をする人がゐれば、そんなことをするのは、その人の精神内部に原因があると言はなければならないだらう。

 異常なまでのホモ嫌ひ(欧米で見られるやうな、ホモ男性に対する不当な差別や殺戮)に関して、穿った説があって、異常なホモ嫌ひの男性は、実は無意識のレベルでは同性愛者なのだといふものがある。

 これは、時代遅れの精神分析的なトンデモ理論の一つだと思ふが、なんにしても、度を越した嫌悪の背後には、何か本人も自覚したくない私怨があり、おそらく、恨みを生んだツラくカナシイ体験があるのかもしれない。

 そんな深刻な話は心理カウンセラーとか精神科医とかにまかせるとして、

 特に心に何かのわだかまりが無い人たちが、緊張の緩和として笑ふことには、それほどの問題は無いと思ふ。

 嗤はれた後、問題を大きくするか小さくするかは、笑はれるやうな属性を持ってゐる人間が決めることになるからだ。
 

 

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