第二の誕生

旦那が先に死んだら、この曲を聴いて飲んだくれて、一週間泣く。

にしきのあきらが、奥さん亡くなった時に、日本酒の一升瓶と、つまみは羊羹だったというのが印象に残っている。
私もそれをやってみる。

一週間後、立ち直り?元気に生きる自分が想像できる( ´艸`)

制作室の音楽③✧♡

あやのん

2024年5月7日 


一週間後、立ち直り?元気に生きる自分が想像できる( ´艸`)
わたしは、自分に関しては、想像出来ない。
でも、次にあるやうに、
・・そして人生は続く、って感じですね( ´艸`)
信じがたいほど哀しいけれど、きっと、泣いてばかりはいられない。
といふ感覚は、人間には必須だと思ひます。


・・そして人生は続く、って感じですね( ´艸`)
信じがたいほど哀しいけれど、きっと、泣いてばかりはいられない。
そう思って生きていきましょう(⋈◍>◡<◍)。✧♡
どっちが先かわからないけど、カラダが無くなると瞬時に相手のそばに行ける気はしてます( ´艸`)

コメント欄@制作室の音楽③✧♡

何千年も前に仏教哲学が喝破したやうに、生きることには意味が無いし、したがって死ぬことにも意味は無い。かうなると、お釈迦さまの教へに従って、
一切求めることをやめて、
自己といふ幻想を脱して、
生きたまま(生きてゐるといふ実感こそが迷ひであることを悟り)本来の無に帰する
しか、生まれて来ても、人間にはやることがない。お釈迦さまがおっしゃるやうに、
あるのは無だけ
なのだから。

けれども、たいていの人は、ビートたけしのやうに「生きる意味は無い」とニヒルに言ひながら、映画の賞を外人から貰ふと泣いて喜んだりする。あるのは無だけといふお迦様のありがたい教へを無視して、私たちは、あれを望みこれを求め、ジタバタ生きてしまふ。

かうした盲目的な生の肯定は、早期(乳幼児期)母子関係から生まれてゐる。
人間は子宮から肉体として誕生した後、母体外の子宮である母子の二者関係の中で、<母親といふ女のからだ>から与へられる
<無条件の存在肯定の繰り返し>
によってじわじわと自己を形成してゆき、或る日、「わたし」として凝集した意識体となる。この「わたし」は肉体を所有し、肉体を操作する、肉体から独立して存在する主体だと信じるやうになる。
かうして、わたしたち人間は、肉体の中に自己を確立して、第二の誕生を遂げる。

第二の誕生は、無条件の、理屈抜きの、悟りや諦念と対極にある無知蒙昧な、人生肯定の始まりでもある。
人生を諦めた(=明らかにした)お釈迦さまがどう言はうと、母子関係によって、
自分とは、この世で唯ひとり「わたし」としてものを考へ現実を体験できる、かけがえのない存在
だとしか思へなくなった自己には、世界には生きる意味が満ちてゐるとしか見えなくなってゐる。
だから、いはゆる出家はしない。
非社会的な閉鎖集団(僧のコミュニティ)に入って、みんな同じ服を来て、みんな決められたとほりのことだけをするといふ仏僧人生は送らない。
それぞれ、みんな、バラバラになって、それぞれが煩悩まみれの日々を始めるのだ。

さうした人たちも、科学の時代であるからニヒルなことを口にする。
人は一人で生まれて一人で死んでいく
人生は死ぬまでの暇つぶし
けれども、言ってることはニヒルでも、生き様自体は、やはり、たけしと同じく、お笑ひ芸人のそれである。

わたしたちは、お笑ひ芸人であるから、お釈迦様が無意味だとしつこく言ってる、この人生に絶望して自殺することもなく、なにがあっても、
・・そして人生は続く、って感じですね( ´艸`)
信じがたいほど哀しいけれど、きっと、泣いてばかりはいられない。

と言って、笑って、立ち上がって来る。

もちろん、泣いてばかり、怒ってばかり、嘆いてばかり、恨んでばかり、鬱病に悩まされてばかり、生きることは辛いばかりだといふ人もゐる。
そして、そんな人は自殺したり人を殺したりすることもある。

生きづらい、
生きる意味など無い、
自殺したい、
人を殺して自分も死なう
などと心の底からの真実の感覚として思ふのは、
母子の二者関係の中で、
<無条件の存在肯定の繰り返し>
によってじわじわと自己を形成してゆく
といふ作業がうまくいかなかったからだ。




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