2024/02/29 ——の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい

 「資本主義リアリズム」を読み直しているが、これまでよりもずっと、はるかに、マーク・フィッシャーの語りかけがわかるようになっていて、新鮮な驚きを感じた。「資本主義リアリズム」が描き出すムードに、自分が同期しているのか。ここ二年ほど苦しんできた経験が、ふたたびマーク・フィッシャーと自分を引き合わせたのかもしれない。

 なぜこの本が各所でバイブル的な扱いをされているのかも、少しわかった。批評にとどまらず、閉塞した社会へのぼんやりとした不安に少し輪郭を与えてくれるような手つきがある。しかし、当のマーク・フィッシャーは死んでしまった。本書で書かれている「再帰的無能感」に飲まれてしまったのか……。

 この、「再帰的無能感」について、とても興味深く読んだ。

彼らは事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっているのだ。けれどもこの「了解」、この再帰性とは、既成の状況に対する受け身の認識ではない。それは、自己達成的な予言なのだ。

マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」

 この、「受け身の認識ではなく、自己達成的な予言」という部分に、みょうに納得してしまった。再帰的無能感は学習性無力感にも似ているが、「再帰性」「自己達成的な」という部分が二つを分ける。再帰的無能感は、当事者には鬱病的な啓示を与えるのかもしれない。

 以前、自分の無能感について日記を書いたことがあった。

 時間がばらばらになったせいで、報酬系が機能しない。過去の成功体験も、自分のものではないように感じてしまう。未来に期待する気持ちもない。だから、過去の功績をモチベーションに、今、未来に向けて頑張る、という筋道が壊れてしまった。

 これを私は、いわゆる学習性無力感によるものだと思っていた。だから、報酬系を意識して新しい学習で上書きしようと試みたりもした。
 もし、これが離人症的なものに起因するのであれば、また新たなアプローチを考えねばならない。
 なぜなら、過去-現在-未来という回路が壊れてしまっているから。過去の自分が他人に思えて、現在無気力であり、未来の自分を虐待する。そういうループに嵌っている。

 離人症・報酬系に加えて、再帰性という補助線を引くことで、私のこの無能感は説明できるのかもしれない。

 これをどうにかしたい、という気持ちが残っているのが厄介だ。どうにかしたいのに、どうにかできないから。時間感覚も壊れて、報酬系ももともと弱くて、そしてそれによる失敗を学習している。この呪いを解くためにはどうしたらいいんだろう。

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