2021/9/18の日記

なにもできない状態だとイライラする、というのを私はマニキュアを塗る度に思い知らされる。あれは、乾くまでの時間が非常に厄介で、生乾きの爪が少しでもなにか触れればせっかく筆で平坦にならしたマニキュアが汚くなってしまうから、なるべく手自体を静止していないといけない。これが意外と難しい。一番いいのはアニメとかを見てそっちに注意をそらすことなんだけど、あんまりアニメに夢中になると爪を乾かしていることをつい忘れてしまって安易にビールやらつまみやらに手を伸ばして失敗する。つまり、マニキュアを乾かしている間は、マニキュアを乾かしていることを絶対に忘れないようにしながらなんらかの気晴らしをしなくてはいけないのだ。
そう思うと、普段厳しい先輩とか、プライベートが全く見えないクールな先輩とかの指先に、その人の人間らしさを見て取れる。ちょっと塗りがはみ出していたり凹凸ができていたり、そういうマニキュアだとなおさら、この人もあの、マニキュアを乾かしている間の退屈をやり過ごそうとして失敗したのかな、なんて思ってふふっという気持ちになる。
凹凸といえば、この間の会でも話したが、「絵画の自己言及性」という言葉も思い出す。

マニキュアにおける自己言及、なんてものはないのかもしれないが、私にとっては「マニキュアをしているということ」がマニキュアをすることで言及される。好きな色を塗る、自分の好みを表明する、そういった楽しみがマニキュアにはあるのだが、それらをひっくるめて「わざわざ自爪ではなくマニキュアを塗る手間を選択」している、ことを私は読み取ってしまう。
メイクならばすっぴん風、なんかもあるけれど、マニキュアは基本地の爪を見せないように塗りつぶすかたちになる。(就活のときやフォーマルな場面では爪もすっぴん風を装わねばならないが。)地の爪を塗りつぶした時点で、それは自分の本来の爪とは全く異なる飾られた、人工的な爪になる。そして、その人工的な爪を作り出す手間を掛けている、ということが身だしなみのひとつになる。
マニキュアを注意深く平坦に塗る、ということをするたびに、私は写真登場以前の伝統的な西洋の油絵が、それが絵画であることを絵画自身が暴露しないように筆致を残せなかったことを思い出す。大げさだけど。

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