2024/02/23 不在着信

 風呂に入って、いざ身体を洗おうとボディソープのポンプをくしゅくしゅしたけど、何も出なかった。仕方なくシャンプーで身体を洗った。昨日の時点では、ボディソープの中身がランアウトしてる気配なんてなかったのに、いきなり出なくなるなんてと思ったけれど、いきなり、と思うのは私の主観の話であって、現実では、毎日着実にボディソープを減らし続けていただけなのだった。

 いつからか、多くのことをタイミングのせいにするようになり、それでいくぶん精神の安定は得られた。きっとこの習慣は、死ぬまで変わらないような気がする。苦しみは少ないほうがいいからだ。ありえた可能性を犠牲にして、なにかを諦めたぶんだけ楽になって、そうやって老いていくこと、それも悪くない、と思っていること、それじたいがなにかを失っているサインなこと、すべてに思いを馳せて、どれとどれが不可逆な変化なのだろうか、などと検証している。死ぬ瞬間になってもきっとわからないことに挑み続けたい、と言いながら、私はどこかでタイミングにすべての責任を押し付けて安寧を得る。

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか? 何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた? 復讐された? いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。

ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」


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