2024/04/22

 春が来た。堪え難い冬を経て、ようやく私の心も温かくなってきた。

 冬の間に失ったものについて思いを馳せるには、まだ春は早すぎるのかもしれない。そうとわかっていても、私は思うことをやめられずにいる。

 こうして文章を書くとき、私は冬の間に文体をひとつ失ってしまったことに気づく。

 それは苦しみから抜けつつあることの証でもある。苦しみを養分に生まれたものとの距離が開いていく。

 なぜだか私はそれを寂しく思う。もう苦しみたくはないのに、自分の一部が遠ざかっていくことに対しての心の準備ができていない、と思う。

心情や物事は決着がつく方が稀で

完全で
最終的な決着がつくことを奇跡という

それは自力で引き寄せることはできない
ある日突然訪れる

歪んで見逃さないように

悲しむのも忘れるのも自然でいなさい

市川春子「宝石の国」より

 わかりやすく春に脱皮していく私の心は単純で、それに救われていたりもする。
 これが未来永劫続かないことも知っている。再び暗い冬を迎えるときが来るはずだ。
 だから春の間にうんと次への準備をしなくてはならない。
 私は手放しで春を楽しめる人間ではない。苦しみやすい人間だから、動けるうちに、未来の自分に体力をあげないとならない。そういう運命だと今は思っている。
 そうして私は、自分の連続性についてひとつの気づきを得る。未来のことを考えられるようになっていることを自覚する。

 近い未来に、私は冬の間の責任を取る。
 どういう形でかはわからないが、私には引き受けるべき責任がある。

 喪われた文体の亡霊を供養しなくてはならない。
 
 新しい文体を獲得しようと願うなら、同じだけ喪ったものに祈らなくてはならないのだ。

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