田宮模型の仕事 田宮俊作
どぅもほのぼの🍵です今回は田宮俊作さんの書いた田宮模型の仕事です
あらすじ📚
戦車のプラモデルのために東西冷戦下のソ連大使館と直談判し、
車の模型を作ろうと実物のポルシェを解体してしまう。
そんな本気がタミヤを世界一の模型メーカーにした!
自らリンゴ箱の上で模型の図面を描いた社長が綴る涙と笑いの奮戦記。
私見🧐
日本が世界に誇るホビーメーカーのタミヤ模型の現社長の田宮俊作さんの書かれた田宮模型の仕事を読みました、ざっくりいうとタミヤの創業から現在までという流れを書いてるんですがビジネス本としてもいけるし(そんな難しい内容ではない)ただのオタクが好きなことをやりまくった自分史とも言えますね
タミヤの創業者は著者の田宮俊作さんのお父さんで田宮義雄さん、色々あって木製の模型屋さんをやってたんですがそこでまさかのね
そっこーで漏電から火災になってしまって人生のどん底へ突き落とされてしまったわけです
いきなりもってるやん義雄さん、ここで終わってたらただの漏電して破産した人の話で終わってしまいます、シンデレラストーリーには必ず悲劇が必要なんです
幸せな話をえいえいんと聞かされても飽きてしまいますが、悲劇を散々聞かされてその後少しだけ幸せを与えると今までの全てを忘れて
とても幸せな気分になるあんな感じでしょうきっと
それでもめげずに会社を再興して頑張るわけです、頑張るしか取るべき決断はないからね
少し話を戻して俊作さんはまだ子供時代の話なんかもありましたね、まだ戦争中の時代なので敵味方の飛行機やらがブンブン飛んでるのを見てた田宮少年は目を輝かせてたそうです
で工作の時間に手製のグライダーを作る授業があったそうですが、田宮少年の作ったグライダーはよく飛んだそうです
この頃からなのか物作りというかそっちの才能があったのかもしれませんね
で順調に育っていくわけですよ俊作少年は
そして大学に入るとその才能が岡本太郎のように爆発だって感じで借金とりになります
いやいやいや、どーゆうことよ?
マンダ金融に感化されたわけでも極道へスカウトされたわけでもなく、田宮家には金がなかったのです
そこでお父さんの義雄さんは「俊作、大学入ってもいいが生活費は自分で工面しろ、幸い東京で金を貸してる人たちがいるから、そいつらからぶんどってこい」
んで俊作さんは追い込みをかけるべく債権者の元に向かいますが相手にされず金は徴収できない、そのおかげで下宿の金は払えないと散々な思いをします
なんとか粘り腰で徐々にお金を回収できていくわけです、この時の粘り腰がその後の役に立ったかは本に書いてあったかはほのぼの自身覚えてません
大学を卒業すると俊作さんはもちろんのことタミヤに就職するわけです
その頃は木製の模型を扱っていたわけで色々な工作機器を使って模型を制作しては販売してたわけですが、ついにですついにあいつが海の向こうから黒船に乗って日本にやって来ました
って感じで1章目の木製模型との出会いは終わりです
2章目
2章目はプラモ屋に転身です
早速ネタバレになってますが黒船としてやってきたのは何を隠そうプラモデルだったのです
そのプラモデルを見た俊作さんは衝撃を受けたわけですよ、きっと明治の人たちが黒船を見た時と同じような衝撃を受けたはずです
なんじゃーこりゃ
撃たれたわけ胸をねズキュンと、本家の人は確かはお腹だったけど
木製模型ではできないような形状やその精巧さに、そしてそんなスーパーな模型が上陸してしまったら木製模型の売上は急降下していくのは必然でした
んで従業員は不安で辞めて行ったりしてタミヤめっちゃピンチ
思い悩んで出した答えはプラモデル屋にジョブチェンジしちゃおーぜってパリピみたいな乗りだったかは不明ですがパリピ俊作とパリピ義雄はガラッと方向転換
したはいいけどど素人のチームタミヤ
まずは金型やろってことで金型屋にアプローチに行くも全然相手にされず、プラモデルはめんどうってのが主な理由だったと
それにプラスチックは当時はめっちゃ高級品ってのもあったみたい、それでも諦めたら首を括るしかない俊作さんはとりあえず金型屋にアタックしまくるわけです
そしてなんとか金型屋をみつけてやってもらうことに成功、成功したはいいけどまークソ野郎っぷりが凄い
納期遅れなんて当たり前でいつ出来るかさっぱりわからん状態、でも仕事は唸るほどあった時代だからそれでも良かったわけよ
昭和あかんよそんなんじゃ
とりあえずやってもらわないといけないからなんとかやってもらって作ったのが戦艦大和
当時は戦記ものが子供の間では流行ってて、戦艦だ飛行機だって漫画などを食い入るように見てたみたいです子供たちは
よっしゃーこれはいけるやろって発売したら大失敗で大赤字
あかーん
この件で逆に肝が座ったらしい
木製模型は売れない、プラモデルをやる金はない、じゃー発泡スチロールだとやってみたが案の定、久石譲というか売れず
このあたり人間に真理というものを上手く表現してる気がしますねー
なんとか綱渡りでも残って頑張るタミヤに幸運の出会いが訪れます、小松崎茂先生との出会いがタミヤの運命を変えたと言っても過言ではないでしょう
俊作さんは勢いで先生に手紙を書くんです助けてくれと
見ず知らずの人からの手紙を読んで返信してくれて力になってくれるなんて尊い、トイが好きなだけに尊い
パンサー戦車の描いてもらってそれが大成功
本書に写真が載ってますがめちゃくちゃかっこいいです
タミヤのロゴといえばあの赤と青の星が横並びになってるやつですがあれは当時芸大に通ってた弟さんが作ったものだそうです
素晴らしい
この小松崎先生との出会いでタミヤが得たものは人もでした
色んな人を紹介されて採用したことも多々、金を使い混んで首になった人とかも紹介してもらったそうで…
微妙
人との関係の大切さを痛感した第2章になったわけです
3章に向かいます
3章目
プラモデルで大事なものは色々とあるでしょうが要になってくるのが金型
素人だったタミヤはいいように金型屋にぼったくられてたわけです
面白いのが金型屋に行くたびに車が変わってたり時計が変わってたりと成金社長を絵に描いたような金型屋の社長がいたそうです
そーいった人の末路は決まってました
潰れたそうですいい加減なことをしてたとこは、これは金型屋だけではないでしょう全業種に言えることですね
苦々しく金型屋については思ってた俊作さん、そのうち自分とこで工作機械とかを揃えて製品も作っちゃうところが凄いというかパワフル
工作機械は時代とともに進化し精密で生産性などを上げてくれる、でも最後は人間の感覚がものを言う
最後のこのほんのちょっとは人間の感性なのよ
素晴らしいテクノロジーと人間の感覚っていうアナログが融合すると超絶いいもんが出来る
どちらも大事なんですよ
アメリカで面白いものが作られ輸入された、スロットカーといってもミニ四駆とRCカーの間みたいなやつで
それが上陸して大ブームを起こすことに
いつもアメリカからやってくるねー
ブームになれば出てくるのは似たような粗悪品、俊作さんはそんな粗悪品を見てブチギレよ
いいもん作ったると徹底的にスロットカーを研究してアメ公の鼻を明かしてやると日夜研究に励んだわけですね
直線は速いがカーブに難あり
これがタミヤ側のアメリカ製のスロットカーの評価、なのでタミヤはカーブで勝負だって事で本物の車などを研究してタミヤ仕様のスロットカーを開発
これはいけるでーってことでアメリカに模型屋さん達で行く機会があったので、アメリカの小売店に売り込みに行ったんですが
けんもほろろ
日本製=質の悪い製品
バックトゥ・ザ・フューチャー3のドクみたいな感じですな
アメリカの厳しさにすっかりしょんぼりしてしまった俊作さん
気晴らしにスロットカーのレース場に行ってみるとアメ公達が遊んでたので混ぜてもらうことに、ジャップのスロットカーなんかに負けるかよって雰囲気をプンプン出してたそうで
実際にスタートしてみると直線はアメ公達のスロットカーが速く、
それを見たアメ公達も楽勝やろと思ってたのはそこまで
カーブが勝負だと踏んでいた俊作さんは、冷静に勝負をし鼻にかけてたアメ公どもをボッコボコにしたやったわけよ
気持ちいねー
人類の最下層のアジア人に負けるなんてアメリカ人のプライドが許さないのか、再三勝負をするも全員ぶった斬ってこれぞサムライと言うとこを見せつける無双っぷり
あ、ちなみに俊作さんが使ってたスロットカーは見せるために持ってきてたタミヤ製です、そのレース場にオーナーみたいな人にこの製品すごいでしょって言ってみたけどダメー
そのスロットカーじゃなくて君の腕がいいんだろ、腕は買えないからさ
って
いいこと言うやんオーナー、そんなこと言われたら引くしかないやん
アメリカ人は相手を怒らせるようなクレームは言わないそうです、銃社会のいいところですね
アメリカでの評価にテンションの下がった俊作さん、次はヨーロッパに向かいます
期待などもたずに
行ってみるとタミヤの模型を扱ってくれてるところもありめっちゃWelcome状態
アメリカとはえらい違う状況にびっくりの俊作さん
イギリスでは日本で買う値段の倍ぐらいしてるのにも関わらず、お金を貯めてタミヤ製品を買ってる人たちがいると聞かされ
痛く感激したわけです
わからないもんだねー本当に
いいものは認められると言うことこれが3章ですかね
4章目
4章はと言うといいものを作るために必要なことですね
いいものを作るために俊作さんがやってたのが取材です、これがめちゃくちゃ大事だと
さっきのアメリカでのスロットカーの売り込みに失敗した俊作さんですが、売り込み以上に大切だったのが本物の戦車の取材
そこでアバディーンってところにある戦争博物館を訪れました
ここには戦車が展示してあるってことで行ってみると、広大な敷地に戦車やらなんちゃら車やら見渡す限りの俊作さんにとって宝の山のような場所でした
あかーん
ってなって朝からモーテルを飛び出してきた勢いのまま写真を撮りまくっていくわけです
今まで大した資料もなく小松崎先生の家を訪れる際に神保町に寄り道して洋書を買って対応してたけど、それも限界があるわけですよ写真は不鮮明だし
それが今目の前にある
こんなチャンスはない
そして1番撮りたかった戦車の底の部分なんかは戦車の下に潜り込んでパシャパシャ撮りまくったとか、写真と一通り撮ったらメジャーを使っての寸法測定
丁寧に徹底しての取材がいいものを作れる下地になってるわけですよ
どうしても戦車を上から撮りたい、模型は斜め上から見ることを想定してるのでその写真が欲しいと思うのは至極当然
俊作さんは戦車によじ登って写真を撮りますが警備員がそれを発見してブチギレます
渋々諦めて他の取材をしてふと気づくとさっきの警備員がいない
チャーンス
のぼれーってことで再び戦車によじ登り写真を撮りまくって無事に戦車を上から撮ることに成功
もう時効なので許してあげてください、この頃は大人が自由だった時代なんです
コンプラなんかクソくらえ
ほかにはパットン記念館とかでは貴重な戦車の内部を撮影したりと、ここに博物館があればどこにでも飛んで行って取材をしてたようです
今ほど簡単に海外に行けるような状況ではなかったでしょうが、模型づくりへの情熱が俊作さんを動かしてたんでしょうね
イギリスではボービントンに戦車博物館ありと聞いてかっ飛んでいって取材をしたそうです、そこの館長は功績のある軍人さんが勤める慣わしだそうです
その館長のダンカン将軍はめっちゃいい人だったそうです
色んな思いで話を聞かしてくれたみたいです、大きい車両だけではなく小さい車両にも歴史があり背景がある
俊作さんはその時まで大きな車両にばかり目がいってたみたいです、それがダンカン将軍がケッテンクラートってトラックの話を聞いて印象が変わったそうです
ダンカン将軍の話を聞いた後は念願の撮影タイム、昼飯を食うのも忘れて撮りまくってたら一緒に来てたイギリスの代理店の人たちも呆れてしまったとか
少年なんですね俊作さんは
それからボービントンには毎年のように訪れある時からお礼をするようになっていき、それが発展した形でタミヤホールがオープンする気っかけになったわけです
素晴らしいとしか言いようがない
アメリカやイギリスで色んな戦車を見て沸々と湧き上がってくるのはソ連の戦車も見たいという欲求、ってことで少年のような俊作さんはソ連大使館にコサックダンスで突撃して交渉しますがあっさりと「ニェット」と言われてしまいました
大使館から出てくると警察官に職質をされてしまいました、東西冷戦の頃なのでソ連の大使館に入ってく人は監視されていたんでしょう
しばらくして千載一遇のチャンスが訪れます、当時中東戦争が起きていてイスラエルに鹵獲された戦車があるって新聞で見ると
居ても立っても居られない俊作さんはイスラエルに飛んでいって街中に展示してあるソ連の戦車を撮影することに成功
フットワーク軽すぎですやん
今は知らないですが当時イスラエルには日本大使館があったんですね
取材を重ねていいものを模型として販売していったタミヤが雑誌を出すとそこに色んな意見や模型好きの読者さんが自分で作った模型の写真なんかを送ってくるようになったそうです
屋外や砂場で撮った写真など様々な写真がありそれを掲載すると
こうするともっと臨場感が出ますよ、これを使うとリアリティがましますよなど知識や経験が共有される場ともなっていったそうです
今のSNSと変わらんですね
そういう大きな意味での人との関わりだったり出会いってのがとても大切だっていうのがこの章のキーなんじゃないっかと思いました
5章目
そんで5章
この章は色々とあるんですがおそらくこの本の中で1番の見どころというかインパクトがある出来事が書かれています
それはポルシェの解体です
模型屋が解体屋にでも転職したわけではなく、本物思考がよんだ狂気の沙汰とでも言った方がいいでしょう褒め言葉です
そこまでしなくてもと思うのが普通かもしれませんが、本物に忠実なものを模型ファンに提供したいという心意気でしょう
ぶったまげるほどの金が飛んで行ったのは言うまでもないですが、それ以上にバラすのは模型屋のタミヤで出来ても
組み立てはやはり出来ずプロのポルシェの方に来てもらって、このポルシェの模型は全然売れなかった&ブツクサ言われながら組み立ててもらったまでのオチがついてます
それとF1にホンダが参戦して優勝を飾ったことが俊作さんにはテンションの上がったことだったみたいですね
憧れのホンダのF1カーの模型を作るのにホンダにオファーしたら快く受けてくれたそうです、ここでもこだわりが全開になるわけでタイヤの溝のパターン、トレ
ッドパターンも緻密に再現しようとグッドイヤーに話を通すと
グッドイヤーさんはもちろんOK、当時は勝手にやっちゃう企業が当たり前の中で仁義を通したタミヤは素敵ですね
そしてホンダのF1模型が完成するわけです、それをヨーロッパに持ってくとあっちの人はテンション上がりまくりでタミヤの名前を世界に売ったと言ってもいいほど
ヨーロッパではモータースポーツや自転車競技などはめちゃくちゃ人気ありますからね
ホンダの大活躍とタミヤの信念が合わさった事で出来上がったF1模型は本田宗一郎さんにも手渡され喜んでもらえたそうです
6章目
6章はミニ四駆です
タミヤと言えばミニ四駆と言ってもいいぐらい代名詞になったプラモデルじゃないでしょうか、ミニ四駆で1回は遊んだことがあるって人は多いでしょう
このミニ四駆が出来上がった経緯が非常に面白かったですね、俊作さんは40代に突入してぶっちゃけプラモデル作りがしんどくなってきて
ちょちょいとじゃないけど出来るやつないかなーみたいな感じで結合部を接着剤とかではなく、はめ込み式にしたミニ四駆が完成したそうです
ただこのはめ込み式は非常に技術がいる代物で、今までのタミヤのノウハウがものを言ったわけですね
いいものをという気持ちでやってきたことがミニ四駆の難しい部品でも活かされたわけです、自社で製造できる強みってのは大切ですね
そのミニ四駆が完成してよっしゃーブイブイ言わしたるでーってことで売り出したら、ブヒブヒしたのはタミヤの方で全然売れませーん
大塚さんという方にアドバイスをもらったら、小学生にシボレーはわからんやろ
当たり前やー
って事でスケッチをしてもらって色々と改良を加えたら飛ぶように売れたわけですね
飛べない豚はただの豚だと言った彼の言葉が響きますねー
ミニ四駆を作って売れたはいいけどコースがない、じゃー作っちゃおうじゃないってことで作っちゃうあたりタミヤのお家芸というかお決まりパターン
静岡のホビーショーでお披露目になったわけですが、まさかまさかの大人気
RCカーのレースは1回に6台しか走らせられないらしく、暇な人が出てくるわけでその暇つぶしにミニ四駆でもって思ってたらミニ四駆の方が大人気になっちゃった
子供には明快なミニ四駆の方が魅力的に映ったんでしょうかね
そしてはめ込み式であることが思わぬ効果を生むわけです、それは改造を自分で施せるってところです
接着しちゃったりするとこーはいかないです
ある時にミニ四駆のレース大会で見た光景がその後のタミヤのパーツ制作に生かされることになる出会い
コースでレースをするわけですが当たり前のように直線もあればカーブもあります、ただしミニ四駆は手を離したら猪突する以外に出来ることがないです
RCカーみたいに手元で操作することができません
必然的にカーブに表現として突っ込んでいく形になるわけです、そうするとバンパーがぶつかって曲がっていくわけですね
それだと速く走るのに毎回毎回ぶつかっては方向を変えるなんてのは最善ではないわけです、その子供は思い悩んだんでしょう
どうやって壁にぶつかる衝撃を和らげられるか、おそらくはその子にとって人生でも指折りのひらめきだったんじゃないでしょうか
ボタンをバンパーにつけるという目から鱗の発想力で解決したわけです
スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス
ここからガイドローラーが生まれたわけです
ある子供は速く走るとどうしてもコースアウトしてしまう危険性が増すわけです、スピードとリスクのトレードオフですね
そこで後方のバンパーに何本もの針を纏めたものを刺して固定して、車体が傾いてヤバいってなったところをその針がコースの壁に接触して体勢を戻してくれる
これがスタビライザーになったわけです
子供の発想力というか閃くチカラってのは素晴らしいですね、これはきっと思い悩んで解決するというプロセスの中から生まれたはずです
いきなり天から降ってくる幸運ではないはずです
改造する余地、空白とも言えるかもしれませんが、その自由が生んだ画期的な発想だったと思います
それから山あり谷ありでミニ四駆ブームが終焉し、再度レッツアンドゴーでブームが再燃したりとミニ四駆を通してモノを作る楽しさを全国いや全世界の人に伝
えれたんじゃないでしょうかね
ラスト
最後は一(いち)外国人の見たタミヤ
この章は2人の外国人の方がタミヤへの思いを書いています
その中でもタミヤの海外総代理店RIKO社のデビッド・ビンガーさんのタミヤ俊作さんの思い出の手紙はとても素敵でしたね
これは是非本を買って読んで欲しいです
あるフェラーリのエンジニアが「実物の自動車を作る術を知りたければ、タミヤのキットを組み立てるのが近道さ」と言ったそうです
この言葉にタミヤが今まで培ってきたものが全て詰め込まれたこの上ない言葉だと思いました
少年の夢を形にした会社タミヤ
これからも世界中の人の笑顔を作っていって欲しいなと思わされる
そんな1冊でした
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