森一郎『アーレントと革命の哲学』(みすず書房、2022年)を読んで。

 本書は革命の書である。数多く出版されるアーレント本の中で異色を放つ本書は、『人間の条件』のドイツ語版の翻訳である『活動的生』に引き続きドイツ語版の『革命論』を訳された著者による知的躍動漲る一冊の書物である。従来アーレントに関する本は膨大なアーレントの文献の中からその文脈にふさわしい内容を取り出して、いわば外から解説するスタイルが多かったが、本書はひたすらアーレントがそのテクストの中で論じていることの解明にこだわり抜いて読解しようとするところに特徴がある。
 アーレントを読む際の難しさは「手摺の無い思考」とも呼ばれるその独特な文体、思考のスタイルにある。彼女が言わんとしていること自体を、肯定とも否定とも取れるような、いわば皮肉を込めたニュアンスの内にその思考の道筋を跡付けていくことが求められるのである。その皮肉屋アーレントの姿に肉薄し、テクストが本来読者に喚起せんとする文意を読解し読者に提示してくれるのが本書なのである。
 既訳で『革命について』と呼び習わされてきた『革命論』は『人間の条件』と同様、彼女の母語であるドイツ語版が存在し、著者による新訳はそのドイツ語版からのものである。本書でも解説されているようにドイツ語版では英語版で簡略に済ませている箇所に改稿が行われ敷衍(ふえん)された形での書き足しが見られる。従来彼女の政治哲学の帰結であるかのように受け留められてきた革命論を、新たな翻訳を通して、彼女の為そうとしていたことが政治理論の提示ではなく政治哲学、ひいては市民哲学そのものを問い直すものであることを本書は明らかにしている。
 アーレントの思考の根幹には常にギリシア哲学的な発想があり、アリストテレスにならうものであることを強く感じる。本書で印象的だったのは、他の著作でも用いられるエリートという言葉の位置付けである。政治的エリートについての問いかけは言葉の創設による革命から討論の内に権力を持つ来たるべき者の姿を望見している。その姿は本論と少し離れるかもしれないがアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の中でフロニモスと呼ばれる人物像やニューマンが大学論の中でジェントルマンとして提示している人物像・人格と重なるように思う。ある市民的成熟に基づいたその人物像に求められる判断力はカントが問いかける理性的存在者の在り方とそれほど離れたものではなかろう。本書は『革命論』読解の本であるのみならず、アーレントの主著と呼ばれる所以を明らかにしている。
 本書にはもう一つの特徴がある。それは著者がアーレント読解と並行して読者である私たち日本人が関わらざるを得ない問題として憲法についてたびたび論じていることである。評者である私も本書を書店で手に取って立ち読みしていた時にはそれを奇異に思った。しかし本書が証しするように憲法について論じることはアーレントがアメリカ建国の父たちが望見した憲法のあるべき姿を見つめることを通して明らかになる問題でもあるのである。アーレントの思考の具体性を捨象して抽象的な理論としてのみ受け取ることはアーレントの本意にそぐわないのではないか、そう著者は問いかけているのではなかろうか。
 本書は『革命論』を、政治理論の書としてではなく、それこそ革命の書として、『活動的生』に並ぶ主著として提示し、この世界に生きる私たちが今どのようにして市民として生きるのかを問いかける書である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?