シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓訳『根をもつこと(上)』(岩波文庫、2010年)を読んで。

 「根をもつこと」、それは根を張ることであり、根を張るべく自らを掘り下げていくことでもあるだろう。ヴェイユの言葉に解釈は不要かもしれないが、『根をもつこと』を読むことで感じたことをいくつか記してみたい。
 ヴェイユの著作は『自由と社会的抑圧』を除いてすべての著作が死後刊行である。死後刊行ともなればそこにヴェイユが意図したことではない配列やニュアンスが含まれるのではないかとよく指摘されるところである。しかしヴェイユのテクストそのものが解釈を拒否し、むしろ読者に省察を求める言葉であるだけに、ヴェイユの正統な理解を求めることが時として不当な要求ともなりうるのではないだろうか。私たちは残されたテクストを手掛かりに、いかにしてヴェイユその人の思想に近づいていくことができるのかを問われているのである。『根をもつこと』もそういった著作の一つである。
 『根をもつこと』の翻訳で手に入りやすいものには、春秋社の山崎庸一郎訳と岩波文庫の冨原眞弓訳がある。山崎訳にはT.S.エリオットによる英語版への序文が付されており、これを読むためにだけ手元に置いておいても良い内容であり、如何にエリオットの読みが時代を先取りするものであるかを感じる。冨原訳にはフランス語の原本にはないエリオットの序文は付されていないのだが、事細かな訳注が付されており、この訳注を読み進めることでヴェイユ研究の最前線へと読者を招いてくれること必定(ひつじょう)である。山崎訳がストレートに文意を伝える訳文に簡潔な注が付されたものであるのに対して、冨原訳はヴェイユのうねるような思考を再現し、独白を思わせる、事柄を掬い取ろうとする繊細さを再現するものであり、それに時代状況や引用元のニュアンスへの解説をも含めた詳細な注が付されているのである。
 『根をもつこと』は第二部と第三部との、大きく分けて二部に分かたれる。なぜ第一部を中心としないかと言えば、これは序論をなすものであり、本論の前庭を明らかにするものであるからである。すなわち、私たちの置かれた状況を記している箇所であり、ヴェイユ自身の主張というよりも私たちが「根をもつこと」がどれほど必要な状況にあるのかを列挙していく箇所だからである。この冒頭部も含めてヴェイユの『根をもつこと』における文体はアリストテレス的列挙を思わせ、私たちが直面する事態の広がりの外延を明示するために事細かに省察を積み重ねていく様子というのがうかがえる。
 本書『根をもつこと(上)』の中心となる第二部「根こぎ」は読者の意表を突くかのように「根をもつこと」が何であるかを明らかにする章となっている。私たちを取り巻く世界がいかに「根をもつこと」を妨げているかの考察を通して、「根をもつこと」そのものが本来いかなるものであるべきかを、いわば否定神学的に明らかにしていくのである。
 ヴェイユは「ヴェイユはこう言っている」といった言説を拒む書き手である。そもそも世に出すことを意図していないテクストをしてヴェイユの主張を取り出すことが著者にとって不本意なことであるかもしれない。しかし時に諧謔と皮肉を思わせる現実への鋭い眼差しを通してヴェイユが見つめたものは何だったのかを見据えながら、読者はテクストを読み進めなければならないのであろう。

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