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呪い

昨日の夜、ふと13という数字が頭に浮かんできた。そういえば2013年がもう10年以上前だなんて本当に信じ難い。その頃のわたしはSEKAI NO OWARIを聴いていて、クラスメイトと従兄弟にゾッコンだった。自分だけじゃなくてみんなに優しい人を好きになるようになったのは多分その頃からで、中学生の頃にいろいろなことが形成されるというのはあながち間違いではないと思う。

大学生くらいまで、わたしは両思いになりたいとかあまり考えず、自分があなたのこと好きだってこと知ってほしいよという気持ちだけで一方的に相手に好きだということだけ伝えていた。例に漏れず従兄弟にも告白したのだが、従兄弟は今でもわたしが自分のことを好いていると思っている。アホか。いつかのあんたへの好意は、今や立派な黒歴史である。いつだったかバイトの先輩に「告白っていうのは相手も自分のこと好きだなって確信した後にするもんだよ。」と言われて目から鱗がこぼれ落ちた。わたしの告白の概念と、世間の告白の概念には大きな違いがあった。

今後、わたしの人生、何もかもを抜きにして誰かにただ真っ直ぐに好きだと伝えることってあるんだろうかってマッチングアプリをフル稼働させながら考える。無い気がする。悲しい。マッチングアプリでは趣味でも見た目でも「いいな」と思った人にいいねを送って、逆に「いいな」と思ってくれた人から届いたいいねをごめんなさいしたりありがとうしたりするのだけれど、こんなもので本当に恋愛できるのか?と甚だ疑問である。このままアプリを続けていたら、いいなと思える人と出会えるのかもしれない。でもそれって、好きとは違う気がするのだけど、もうこの先わたしは誰かを好きになることなんてないのかもしれないし、ここらへんで妥協するのがいいのかもしれない。でも、そしたらyonigeを聴いてざらりとした気持ちになったりはできないんでしょう?そうなったら、過去の恋愛たちを引っ張り出してくるほかないんだろうか。というか、25歳で恋を諦めるのってまだ早いのかしら。わからない。うーむ。人生、わからないことだらけである。

13といえば、3月13日は10年以上片想いした相手の誕生日だ。誕生日ってひとつの呪いだと思う。あの子の誕生日はどうやったって忘れられない気がする。そういえば、わたしに興味ないと思っていたあの人だって、わたしの誕生日を覚えていたし、誕生日ってやっぱりなんか特別なのかもしれない。アレン様は誕生日を人に教えないって話していて、その話を思い出すたびにわたしも誕生日を特別にするのやめようと思うのに、カレンダーを見ると、ふとデジタル時計を見ると、思い出してしまうのだ。好きなイラストレーターさんが中島健人くんが好きだと言っていて、わたしの片想い相手と誕生日が同じだと質問箱に送ると、ケンティーの誕生日とか知りたくなかったと言われたのを思い出した。今ならその気持ちがわかる。誕生日なんて知らないくらいがちょうどいいのだ。あと4日であの子の誕生日はやってくるけれど、わたしのおめでとうがなくたって、あの子にとってはどうってことないんだろうなということだけは、はっきりとわかる。友だちの縁って、本当に簡単に切れてしまう。きっと、ずっとわたしに飽き飽きしていたんだろうなって簡単に想像できてしまうくらいだし、わたしがすがっていただけでいずれ切れる縁だったんだろう。映画を一緒に観に行ったときに予告で流れた映画。あれも一緒に観に行きたいねと話したのに結局一緒に観に行くことはなくて、今日アマプラで妹と一緒に観た。良い映画だったな、一緒に観に行きたかったなと思ってしまう。わたしまだ、未練あるよ。頼むから、この先誰とも一緒にならないでほしい。孤独でいてよ。あんただって誕生日でわたしを呪っているんだから、このくらいの呪いは許されてほしい。

久しぶりにファンデーションをつけたら肌がボロボロで悲惨なことになった。多分ニキビ治療の薬の影響だろう。あとはちょっと、保湿を怠っていたツケがまわってきたっぽい。そろそろお肌にちゃんと課金しないといけないみたいだ。生きていると年々お金がかかるようになって嫌だ。25歳なのに貯金が全然ない。マッチした大学生に早く社会に出て養って^ ^と言われた。なんでお前を養わなあかんねん。こちとら自分のことでいっぱいいっぱいである。とりあえずスキンケアも頑張ることにして、アラサーがんばっていきましょかー。(いやだよー!!)

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