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京都の夜道

友人に会いに行った。
時間はたっぷりあったので駅で切符を買って、やってきた電車に乗った。
平日の昼前、電車は空いていた。

3度目の乗り換えの後、
2つ目の駅のホームにたくさんの人がいた。
私の隣のリュックサックを網棚の上に乗せ、再び座り込んでうつらうつらしていた。
隣に座った高校生が
先生お手製の紙資料を眺めていた。

京都は雨だった。
本当は最初に宿に荷物を置いて、手ぶらで昼食とおやつを食べに行き(馬も見て)夕方から友人に会うつもりだった。
しかし、京都に着いた時点で宿に従業員がいるか微妙な時刻だったので、端折っておやつを食べることにした。

雨がやんだ。友人に会えた。

友人と別れて宿に向かう道は夜だった。
2週間前、父から逃げて夜道を歩いたことを思い出した。あの日と同じ静かな夜だった。

ところどころに人がいて、交わることはないのに「ひょっとしたらこの人は通り魔かもしれない」という恐怖を感じた。
昼間に人が多いこの街で、夜も人がいるのは当然かもしれないが、昼と夜とで受ける印象がまるで違う。
昼が無防備なだけか夜が意識過剰なのか。

ただ、今の私は「死んでも構わない」投げやりな気持ちも隠しているので
恐怖を感じながらも目的地のことだけを考えて超然と歩いていた。

朝が来た。また友人に会えた。
私は「笑いすぎて頬が筋肉痛」と言った。

親に放置された子どもが部屋の中で一生懸命に食糧を探して生きている映画を見た。
幸せな時間を思い返して
画面の中の一生懸命な子どもを想って
満足に生きているときは、あるいは
目の前のことに真剣に生きているときは
死にたいとか生きたいとか思うことはないんだろうかと考えた。

恋人と暮らしていたときも、ひとりで暮らしていたときも、死にたいと思うことはなかった。
死にたいときはいつも近くに嫌に思う人がいるときだった。

私は私のために生きる場所を探す必要がある。相手のためにも離れる決断をする必要がある。
解放された夜道は
羽が生えたように体が軽くて楽だったが
楽しい時間からの夜道は少し怖い。

好きな人たちにまた会いたいなと思った。
好きな人たちがいつまでも幸せでいてほしいと思った。
一緒にいることで私が傷つけてしまうような人は、私が離れるから楽しく過ごしてねと思った。
好きな環境で暮らして、たまに好きな人に会いたい。そのために私は生きたい。

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