得意は分母のポテンシャル

よく得意なことと苦手なことの違いがわからないなって思う。

苦手だからできるようになりたいと思ってやってきたことは得意なことなのかな。

100のうち90はしんどいことばかりで、ようやく10の良いことがあるみたいな。

得意なことが人よりも秀でていることだとすれば、上記の分野は胸を張って得意ですとは言えない。

やったからできるようになっただけ、みたいな。
100発的を得たことがすごいと誇れるのは分母次第だと思う。分母が100だったらすごいと思うし、分母が10000だったらあーうん、まぁ当たるよねってなる。

何発当たったか、人よりも優れたスコアを出せたことが自分の才能を測ることは難しい。

ただ、100発で諦めず10000発打てたことは評価すべきである。100発しか打てない人は100以上いかないけど、何発でも打てる人は長い目でみると100を超える。

得意や才能は分母の数を増やせるポテンシャルがあるかどうかではないだろうか。

私が何回でもトライすることって何なんだろう。
そしてその能力はどれくらいの粒度で測れば、未来に活きるのだろうか。わからないない。

私の場合、何度でもやってしまうこと決して「楽しいから」「面白いから」ではない。「安心したいから」である。

自分の今持っている幸せや平和が脅かされないことが私の大事な価値なのだ。

この先も、夕飯は大好きな人と毎日食べたいし、帰ってきた時にお帰りって言ってくれる人がいて欲しい。

そんな安心できる暮らしがずっと続いて欲しい。

私の価値観の最上位である大切な人と過ごす時間の正体は「安心感」なんだろうなぁ

多くの人が安心して毎日暮らせたらいいのにと思うもんなぁ。

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昔のことを思い出した。
思春期真っ盛りの頃、学校の人間関係に悩み、辛かった。

大好きな家族がいて、毎日美味しいご飯を作ってくれたのに、そこに集中できなかった。
その幸せに浸ってしまったらもう抜け出せないじゃないかと、大事だと思うものほど自ら壊していた。

あの頃は夜眠るのが嫌だった。
明日の朝に備えるために体を整えたくなかった。
明日が怖くて布団が温かいことにも気づかなかった。

母が毎日スカートのポケットに忍ばせてくれるハンカチの存在もありがたく思えなかったし、一生懸命働いて揃えてくれた学校カバンや制服は何度も蹴りつけた。将来のために一生懸命まとめた勉強ノートをぐちゃぐちゃに破ってみたり。

私は心が貧しい人だなと思った。
そして、もっと安心して眠れたらいいのに、この不安が拭えたら今の幸せに向き合えるのにと何度泣いたことか。

誰にでも起きうることだ。
まずは自分が安心して生き続けられるようにしたい。
そして多くの人が安心して眠れるように支援していきたい。

不安を取り除く方法は1つじゃない。
そして、論理的な解決策である場合もあれば、そうじゃない場合もある。

そこを一緒に作っていける人になれたらいいなぁ

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