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労働市場と恋愛市場の類似性〜市場に参加している方が負け組?〜

 記事を書いていて気が付いたが、労働市場と婚活市場は類似点が多い。なぜそうなるのかを考えると人間という生き物の特徴が浮かび上がってくる。

前回記事

 前回の記事では労働市場から抜けた人間が勝ち組であるという理論を述べた。医者弁護士のような難関資格を取得するか、大企業の正社員として入社してしまえば、身分が保証された上で高い給料がもらえる。これは資格制度と労働組合によって参入障壁が作られるからだ。早く利権の内側に入り込んでしまうのである。これは「裏ワザ」などではなく、むしろ一般常識と言った方が良い。残念ながら、労働市場での競争を勝ち抜いた人ではなく、参入障壁に守られた人間の方が社会的に尊敬されていることが多いからだ。

 この構造は恋愛市場にも実は成り立っていることに気が付いた。この場合に参入障壁になっているのは婚姻制度だ。結婚した後に恋愛市場に参加すると不倫として扱われてしまうからだ。結婚すると、夫は妻が自分よりもイケメンの男性に乗り換えるのではないか、という不安から逃れることができる。夫婦という存在は不当に恋愛市場から参入障壁で保護されているとも言えるが、既婚者と未婚者で社会的に信頼されるのは前者である。

 大企業で高い給料をもらっていた人物が、転職市場になると年収300万の介護職しか見つからないという現実は良く言われるが、これも恋愛市場に似ている。20代で気立ての良い女性と結婚した人物でも、50代になって新たに恋愛市場に出ていこうとすれば汚いオッサンとしか扱われないだろう。

 恋愛市場にネオリベが適用できない理由も労働市場と同一だろう。まず、人間は身内贔屓をするものだし、これは通常家族愛と呼ばれている。婚姻制度のお陰で売れ残り女性は損することになるが、見ず知らずの売れ残り女性と不倫するよりも自分の妻の方を優先するという感情は批判どころか称賛の対象だ。それに人間は安定志向の生き物なので、自分が不倫する自由よりも、相手の不倫をしないことの方が重要だ。お互いの不倫を常に気にしていては夫婦生活は成り立たないだろう。また、常に恋愛市場に目が向いている夫婦と、婚姻によって恋愛市場を離脱している夫婦、どちらの方が子育てや家庭生活が充実しやすいかと考えると、後者だろう。「モテ」を気にしなくて良くなるというメリットは大きく、お陰で家族とピクニックすることにリソースを割くことができる。

 労働市場と恋愛市場の類似性を考えてみると、驚くほどに構造が一致していることが分かる。日本企業への就職は結婚と同じと言われるが、あながち間違いではない。常に恋愛市場を気にしている男性が良きお父さんとは言われにくいように、常に労働市場の圧力を受けている非正規労働者は社会で尊敬される地位に就けないだろう。一般労働市場は売れ残りの婚活サイトのようなものであり、いい人は何年も前に競争から離脱している。

 ネオリベの考え方によれば、自由競争は善であり、政治的保護は悪である。規制・税・補助金といったものは全て市場を歪める役割しか果たさない。この場合、資格制度・労働組合・解雇規制・働き方改革・結婚制度などは全て「悪」ということになる。

 これは我々の持っている社会常識からは外れている。「この地域にはイオンしか出店できない」という規制があったら不正の匂いを感じ取るだろうが、医者が年収2000万をもらっていたり、ハゲたオジサンが銀婚式をやっていても不正だとは思わないだろう。むしろ、「人間」に関する評価は自由市場から離れた人間の方が高いように思えてくる。どうにも「人間」に関することにネオリベ思想はうまく当てはまらないのではないか。

 ネオリベは自由市場を善行として称揚し、警察や軍隊といった市場原理が明らかに馴染まない業務は「必要悪」として扱う。これが夜警国家の考え方だ。共産主義国家はその逆で、家庭菜園程度であれば市場で売ることは認められていたが、「必要悪」という考え方だった。しかし、両者に優劣を付ける意味はあるのだろうか。社会には市場原理が馴染む業界と馴染まない業界が存在し、両者の境界は常に政治的な議論の元に行われる。どちらかが善でどちらかが悪という方向づけをする意味は無いだろう。これがブルシットジョブに苦しめられた私の経済に関する今の見解である。


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